身体表現のじかん

ダンスは生と共に。

エックス展 vol.13 ~まつりの後~

最早常連、長岡市にて開催のエックス展を終えてきました。

atelier-zen.jp

 

私の展示内容は、前回同様以下の2つ。

 ◆プロジェクターによるダンス動画作品ループ上映◆

  ☞動画作品内容

   ①ほのほの蝎(田中)

   ②峰・漣(渡邉)

   ③春(田中・渡邉)

 ◆ギャラリーパフォーマンス◆

  ☞3/17㈰ 17:00~/3/24㈰ 11:30~(全2回。上演時間約30分)

 

今回のパフォーマンスは、新潟市のアーティストで今回初参加の渡邉蓮さんと共に踊りました。

蓮さんとは、新潟市での別舞台の初顔合わせ(2023年3月末)で出会いました。

彼は舞踏的な即興を得意としており、私との実験的なコラボにも意欲的で、上越市でずっとひとりでパフォーマンスをしてきた私にとって、貴重な出会いだと思いました。

 

また、会場の展示空間も前回同様の以下レイアウト。

出入口から見た展示空間の様子

この空間を二人で踊る。

さて。

私はやっぱり、このハコ・この時にしか出来ないパフォーマンスがしたく。

どうせやるなら、無難じゃない方へ。

ということで、ひとつの展示空間に留まって踊るのではなく、全部の展示空間で何かしらの動きをしていこうと考えました。

結果的に、二人が違う展示空間で、同時に踊っている。なんてシーンも生まれました。

しかし大まかな動きの構成はあれど、二人ともほぼ即興スタイルでしたので、二人同時に動いているとは言え計画性は無く、その時偶然生まれるシンクロニシティ-がどういう形になるのか、というのが面白みとしてのパフォーマンスでした。

なんせ、搬入後に初めて展示空間が把握でき、そこから本格的なパフォーマンス想定が出来ましたの。因みにパフォーマンス1日目は、搬入翌日でした。

 

それでも1日目、見に来て下さったお客様の中には、ただ会場の近所に住んでいて、何となく見に来たと言う青年が、普段芸術やパフォーマンスには全く触れていないのに「面白かった」と目をキラキラさせてくれておりました。

また1週間後の2回目においては、前回のエックス展vol.12の私のパフォーマンスを観て、今回も観に来てくれた御着物を上品に着こなす女性の方が「表現が大人っぽくなった」と笑顔で話してくれました。(今回初めて声をかけてくれました)

 

エックス展は入場無料で、表現手法もアーティストによってバラバラなこともあり、空気感の厳しくない展示。

だからこそ芸術への関心度合いに関わらず、老若男女が見て行きやすい。

故に私共のパフォーマンスが、初めての”コンテンポラリーダンス”体験だったりということも起こり得る。

初めてだからこそ、トラウマも生まれやすい。

金輪際コンテンポラリーダンスは見たくない!なんて決心を植え付ける可能性もあるのだ。

そんな責任感を、エックス展参加初回から勝手に感じていました。

アートへの決別の心の発生は、その方の運命or自由であり、こちらどうこうする領域ではないことは分かっているのですが、そんな不快な違和感より持って帰ってほしいのは、得も言われぬ暖かさである。

例えパフォーマンス中に悲しいと思われる表現があったとしても、最後の最後はどこかホッとした心地で帰ってほしい。

これは私のエゴですな。

今回のように声を残して下さった方々からは、私はとても「やってよかったな」と思えたのでした。

もちろん、かつてから見知っていた方々のご観覧や感想もとても有難かった。

動画作品を編集してくれた青年からは、「撮影時に見たことの無かった表現が見れて新鮮」というような感想を頂いた。

確かに撮影時は、曲の雰囲気やコンセプトに合わせた表情や動きを心がけていて、逆にエックス展においては自分の表現や世界観を打ち出している。

殊に今回のパフォーマンスでは、”人間”をテーマに内容を考えた。

撮影時や被写体依頼時は、”妖精”的なポジションを担うことが多い。

翻ってこのパフォーマンスでは”妖精”の顔ではなく、”人間”として生きることが出来たのだ、という自己満を得るに至った。

展示やパフォーマンス詳細写真は、アトリエZenブログでも公開しております。

atelierzen.blog.fc2.com

 

そんなこんなで、今回も主催の外山さん並びに出展アーティストさん方々、見に来て下さった方々、本当にありがとうございました。

次回も良い意味で成長した姿をお見せできるよう、精進してまいります。

地域ごとのダンス

新潟県には、「新潟市民芸術文化会館を拠点に活動する、日本初の公共劇場専属舞踊団」Noismという公的な舞踊集団が存在する。

Noism Web Site

カンパニーの始動は2004年。私が12歳の頃。

それが今年の2024年で、でかれこれ20周年。

人間であれば成人。独り立ちをして、世に出る年。

創立当初こそ、新潟市や地域の人々との軋轢、存続の危機に何度も見舞われた。

しかし今や全国・世界にその存在を知られ、地域からの理解も深まってきた。

そして、そのカンパニーに所属していたメンバーが脱退後、フリーのダンサー・指導者として地域で活躍していく。

新潟市は、そんなカンパニー経験者による指導の場・教室が多い。

 

2023年、私は新潟市新津に拠点を構える”あるてぃすと”の公募公演に参加した。

HOME | あるてぃすと

 

主たる構成・振付は、元Noismの吉崎裕哉さん・土田貴好さん。

ミストレスを、元Noismの池ヶ谷奏さん。

主役を、元Noismの門山楓さん・簡麟懿さん。

(殊更に「元Noism」と書かれるのは、ご本人たちにとって些か不快かもしれない。

 むしろ、「元Noism」色を薄めたい方も居るかもしれない。

 便宜上統一させてもらったが他意は無い。)

 

私が未成年時代にNoism公演を観に行ったときに、現役Noismメンバーとして踊っていた方も居るのだ。

そんな方々と対等に話したり一緒に踊ったり出来たのは、私にとって大きな宝となった。

技術的にも人格的にも、皆すばらしかった。

 

私は上越市育ちで、新潟市のNoismというものは新潟県内であっても遠くの存在であった。

それがこのように時が経ってNoismの恩恵を得られたのは、Noismがここまで続けてこられたから、そして地方でもダンスのパッションを絶やさずに燃やす続けているダンサーが居るからだ。

またカンパニーの永続には、メソッドの存在も大きいだろう。

Noismには、Noismメソッドという独自の動き方・考え方が存在する。

その叡智が染み込んだダンサーたちであるが故、脱退後もそのメソッドは血となっているだろう。

 

この公演にける私以外の公募者は、みな新潟市新発田市在住者で、上越市という辺境の民は私だけだった。

だからこそ、余所の者だから分かる、新潟市に漂うNoismの空気感・ダンス感と言うのを感じた。

新潟市の上品な市民性も相まって、清潔感がありつつ、どこかシニカル。

対比として、私の進学先であった青森県なんかはどうだ。

熱くて気取らず、どこかアングラ。

豪雪地の上越市は、同じく豪雪地の青森県とは波長が合ったのだろう。

大学時代に身体表現者としてのアイデンティティーを確立させた私は、今でも青森県の血が濃ゆく。

戻って新潟市は、存外雪は少ないのだ。

 

東京都も、もちろん雪は少ない。

東京都こそ、やはり最先端の芸術が栄え、否応なくコンテンポラリーダンスの中心地になっている。

だから、俗に言う「コンテンポラリーダンス」は、新潟市に漂うダンス感の方が主流の表立ったムーブなのだと感ずる。

そこに、”しばれる”感覚は薄く。

ダンス用語的に言えば、新潟市にはあまり「舞踏」文化が感じられないのだ。

根付きづらいのかもしれない。需要も無いのかもしれない。

確かに、エンターテイメントの観点で言えば、舞踏は多くの人々にとって分かりやすい表現では無いだろう。

いや待て。

Noismだって、初期の頃は「分かりづらい」「気難しい」「もっと一般市民に分かりやすい芸術表現にしてくれ」云々と批判されていたでは無いか。

それが20年も続けてこられたのは、やはりNoism側の妥協と軟化があるだろう。

もし草創期Noismが、青森県こけら落としを行なったなら、受け入れられ方は新潟市当時とは違っていたのではないか。

Ifルートを話し始めたら、切りが無いのだがね…

 

優劣ではなく、シンプルに地域差の噺なのだ。

しかし正直な雑感。

どんなバックグラウンドを持っていようと、各立場で各表現で燃えていて◎

 

エックス展 vol.12 ~まつりの後~

先日、ダンサーとして参加したグループ展『エックス展 vol.12』が幕を下ろしました。

ご来場の皆さま、誠にありがとうございました。

また主催のアトリエZen様、柔軟なご対応感謝申し上げます。

エックス展 vol.12

前回vol.11から参加させて頂いている本グループ展は、展示全体としての明確なコンセプトは無く、各作家の様々な表現趣向への大きな制約が無い。

つまり、何を表現するかは作家の自由、という方向性の展示なのである。

また参加作家においても、毎年恒例の方が居れば、初参加の方も居る。

参加作家によって、都度カラーの異なる展示となるのが面白みでもある。

 

果たして今年はどんなカラーだったのであろうか。

『エックス展』に副題を付けるとしたら、何と言い表したら良いだろうか。

展示会場1(奥のプロジェクター投影が自身のブース)

展示会場2

展示会場3(こちらの会場でパフォーマンスを行った)

上記写真にあるように、展示会場は3部屋分。

写真の見えていないところにも他作家さんの作品が展示されていて、全部撮っていなかったことを後悔している現在…汗

 

さて。

今回私はと言うと、会期中の土日各一回ずつの計四回のパフォーマンスを行った。

それ以外の展示時間には、自身が踊っている動画を壁にプロジェクター投影し、存在感をアピールしたつもり。(↑展示会場1参照)

このときは会場の制約上、無音で放映したが、音を付けて自身のyoutubeチャンネルにてアップしようと思っている。(友人の作曲家さんに依頼済◎)

 

パフォーマンスの方は、例のごとく会場を見て内容を詰めるスタイルで、私は皆が搬入している横でパフォーマンスの構成を練るのであった。

翌日には一回目のパフォーマンスが控えているので、搬入日が勝負なのだ。

 

なぜそうしたかと言うと、その会場ならではの雰囲気やカラーを掴み、その会場ならではのパフォーマンスをしたいからや。

そうでなければ、どこで踊っても同じではないか、というパッケージ化されたダンスを避けた選択で、それこそやはり、その展示会場で踊る意味なりアイデンティティーを感じ得ていた。

詳しい内容は別に語るとして、実際のパフォーマンスを見た方々によるブログでの言及をふたつ紹介♪↓↓

 

●主催者アトリエZenさん●

atelierzen.blog.fc2.com

 

●石原洋二郎デザイン室さん●(写真撮影してくださいました)

ameblo.jp

 

非常に有難い記事たち…涙

 

また去年の展示で出会った常連作家、角屋幸さんも素敵な文章で本展示のことを綴っておられます。

ameblo.jp

 

新潟県には感性豊かな作家さんがたくさん居て、各々人生を模索しながら表現を続けておられる姿に、私はかなり元気づけられた本展示。

お客様との交流時間も含め、私は生の喜びすら湧き上がりまして、セロトニンが美味しいのですや。

 

また、まとめさせていただきます。

作家の皆さま、お疲れ様でした。

おどり場 ~第34回全日本高校・大学ダンスフェス~

今月末から始まるグループ展「エックス展 vol.12」で、どのようなパフォーマンス内容にするのかを、最近はずっと考えている。

 

我々が生きる現代の時代背景や世界情勢、世間に流れる雰囲気。

それを捉えて作品を作ることは、コンテンポラリーダンサーとして必要だと思う。

だから今回、現代の現実をどのくらいのレベルで作品へ落とし込もうか、そのチューニングに悩んでいた。

そんな中テレビを付けたら、たまたま「第34回全日本高校・大学ダンスフェスティバル」が放映されており、見てみた。

www.nhk.jp 

 

なぜ見ようと思ったか、三つほど理由がある。

一つは先ほど述べた、現代における状況をいち早く反映したであろう作品が、いくつか完成された状態で見られると思ったからである。

放映された作品を見ると案の定、”コロナ”・”戦争”・”災害”という、我々が目下直面している現実問題をテーマにした作品が多かった。

二つ目は、一つ目とも繋がるが、若者が今どんな問題に関心を持っているのか、作品のテーマとそのパフォーマンス内容を通して、知りたかったからである。

もし私がダンス部の顧問だった場合、大人からのバイアスはかかれど、作品の主要テーマは生徒・学生たちに決めさせるだろう。

それは子どもたちの作品への興味関心・主体性を持たせると同時に、大会までのモチベーションやその後の達成感まで、大きく気持ちへ影響する大事な導入部だと思う。

そんな仮定を前提の上で、私が作品のテーマ性を通して見ていたのは、若者たちの生々しい無意識の生き感覚である。

そんなの、作品のテーマというメタ認知されたもの(可視化)からは見えない、と思うだろう。それでも私は、透視するように見たかったのだ。

なぜって若者は、社会にまだ出たことの無い存在は、精神的に不安定であり、安全である。

そして人間は隠すことが出来ない。

特に舞台の上に立ってしまうと、その者が丸裸になる。

 

自分たちが決めたテーマと、舞台上に立つ自分たちの佇まいから見える無意識の思考、そのギャップを見つめることで、若者たちがどんな生き感覚を持っているのか、例えば彼ら・彼女たちの普段の生活まで感じ得るようなことを試みていた。

 

また今の若者なんて、私からしたらかなり別次元の思考の持主なのである。私の世代よりずっとグローバルで、フレキシブルで、スマホネイティブであるからして、こう若者の舞台を見ると、より足元のリアリティーが見えるような感覚になるのである。

もちろん振り付けは顧問が担当していることもあるだろうが、それを踊る当人たちの表現力や結束感、個人個人の表情などに注目したのだった。

 

さらに三つ目、これも二つ目と繋がってくるのだが、現代におけるダンスの流行りを見たかった。

パフォーマンスにも流行があるのである。

衣装の感じや、音や間の使い方、髪型など、世風が反映されたものになる。

こういった要素も若者の方が感性やアンテナが鋭敏であるため、斬新なスタイルも生まれやすいのでは。

…以上が主な視聴理由(下心)である。

 

さて。

かくしていくつもの作品を見終った後の正直な感想としては、「もう、戦争の話はいいよー!!!」という飽き心であった笑

胸焼けするほどの”悲惨さ・非道さ・無力さ”という、まさに現代に対する感情の表れにお腹いっぱいになった笑

「知ってるよー!!!」と言う具合。

 

だから衣装や舞台照明も、なんとなく斑模様が多く、馬鹿っぽいふざけたビジュアルは無かったと思う。

十数年前くらいに見た同番組の同大会では、もうちょっと子どもっぽいものもあったのだ。

チャップリンの軽快な感じとか、カエルやカタツムリなんかの生態だとか、寿限無や落語の話とか…

お気楽に見れるものも多かった。

時代だ。と言えば本当にその通りなのだが、そんなおふざけ作品が学校のダンス部から薄れているのは悲しみも一抹。

 

それよりももっと伝えたいことが現代の若者の中にあって、その感覚こそが嘘偽りのない自分の生き心地なのだろうな。

世に対する正義感が強い。

しかしまあ私も同じ年代だったら、自らの正義感を奮い立たせて、作品にしたくなるほどの強い感情を抱いて生きていたと思う。

また、正義vs悪の対立構造は、作品として見やすいし、作る側も構成しやすい。

 

またメンバー構成もかつてはバリエイションがあった。生粋のダンス部だけではなく、不足人数分を他の部活動から生徒をかき集めたとか、ダンス経験の有無に関係なくクラス皆で参加したとか、かなりチャレンジングなこと。

 

この度の実際テレビの中で踊っている若者たちは、そのインタビューも含めて見るに、「大人っぽいな~」という印象であった。

そのクールさや聞き分けの良さが、ダンスの節々に表れているように見えた。

気抜けた感じが無く、無駄が無い感じ。

その理由としては、現代がネット社会であり、地方でも上等の衣装が調達できたり、質の良いレッスンがオンラインによって受けられたりと、全体的に洗練さが増したと見えたからかもしれない。

またSNSの普及によって、一般人でも被写体として”魅せる”こと、その自己プロデュース力が、若者にとっては当然のスキルとして根付いていることもあるだろう。

つまりは若者ダンサーの質が、過去に比べ平均的に上がり、一方では均質化されているとも見える。

癖の強い動き方や、素人っぽい立ち振る舞いが消えていっているのではないかと思われるのだ。

ダンスや表現経験が増して魅せることに慣れ過ぎると、個性のあるダンス表現は出来ないのか、と言えばそうでは無い。

 

番組では、生徒・学生たちが「コロナ下で皆で集まっての十分な練習ができない」現実に触れられていた。

だから練習においては、いかに最短距離で効率的に作品に仕上げるか、という方法でしか出来なかったんだと思う。

冒険よりは正攻法。

そして、日常の生活がいつ脅かされるとも分からない不安と警戒心。

若者たちからしたら、熱くなっていいのやら、何やら、、という諦念感と戸惑いもあったろう。

 

自分の持っている100%のパッションを発揮して、仲間とそれをぶつけ合って錬成させていく、みたいな時間は取れない。

放課後までずるずる皆で集まって夜遅くまで踊り狂う…きっとそんな”無駄”な時間は取ってはいけないのだ。

しかしその時間が、社会的には無力な若者たちに”無駄”な自信を与えるのだがね。

それが舞台上で自分たちを後押しするパワーになる。

 

このようにして、おそらく私が今回視聴して感じ得られた若者たちの”無駄”の無さは二面ある。

一面は、技術的表現に歪さの無いところ。

二面は、根拠の無い自信が見えづらいところ。

 

とかなんとかエラそうに言っちゃって~

生徒さん、学生さん、顧問先生方、運営スタッフの皆さん、親御さん、本当にお疲れ様でした。

 

最後に、個人的にはこの時期に人の作品を客観視できたのは良かった。

人の作品を見ながら「では自分はどうするのか?」をもちろん問うていた。

主たる命題は未だ解けず、身体は雲に包まれている。

 

 

Openform的perfoamance2 ~実際~(本番写真未挿入;;)

パフォーマンス日時:3月27日(土) 10:30~、14:30~

この2回のパフォーマンスは、どちらも同じパフォーマンス内容を行う予定だった。

しかし一回目の反省を受け、二回目は修正を行い、パフォーマンス内容を一部変更した。

構成内容は以下の通りである。

※PC故障のため、本番写真は後日挿入。涙

 

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※会場の状態:展示会場に線を引いたり、物をどかしたりと手を加えずそのまま。

 

【一回目(本番までに準備してきた構成内容)】

①2人で入場 ~ヘアアレンジ~

 会場中央にしれっと座り込み、萌さんが私の髪の毛に造形的なアレンジを加える。

 日常空間に突然表れたピクニック的風景である。

 会場では私たち演者と観客とが同じ地上に存在し、照明や音響の効果を加えられない。だから、色鮮やかなモールや髪飾り、付け毛を加えて、私と観客との差異化を図った。また、観客の”パフォーマンスを見る”心の準備を促すと同時に、観客が自然とパフォーマンスに見入ることが出来るようにするための効果を狙った。

 

②俗っぽさを纏う人 ~私のソロ~

 入場から私が着ているパニエは、構想当初は”妖精”的な意味合いとして着ようとしていた。萌さんの彫刻に生えている”手”のようなものは、本人曰く”羽”なのだそう。羽は人間が本来持っていない部位であり、そうするとこの彫刻が聖獣のように思えてきた。そこで私は、萌さんの彫刻物と”同じ国”の生命体になるつもりで、やはりどこか空想的な、神話的な雰囲気を醸し出すようにと思ったのだった。

 しかし実際にこの彫刻2体と並んでパニエを着て立つと、私がまるで女王様のように見えてくる。彫刻1体の大きさが、パニエのスカートにすっぽり入るようなサイズ感だったので、彫刻が子どものように見えたからかもしれない。

 しかし後後になって分析してみると、パニエを着た私のシルエットが、かつて観劇したシルク・ドゥ・ソレイユアレグリア2』(2005年東京公演、私13歳)で登場する女性のシンガーにそっくりなことに起因していると気付いた。このシンガーの動きが実に俗っぽく、娼婦のような動きだなと鮮明に脳裏に焼き付いていたのだった。パニエを着た私=そのシンガーとしての立ち居振る舞いを、自ずと結びつけてしまっていた。

アレグリア2』シンガー(公演パンフレットより)

③私の脱皮→抜け殻(パニエ)で遊ぶ ~萌さんソロ~

 私の寝ころがるポーズを合図に、萌さんが脱力した状態の私の腕を引っ張り、私を端っこに寄せる。同時に引っこ抜けて会場中央に残るパニエ。そのパニエを萌さんが回したり、バサバサと音を立てたりして、色んなパニエの表情を見せながら遊ぶ。

 ダンサーではない萌さんでも動きが出せるようにと、道具(パニエ)を用いて自由に動いてもらった。特に振り付けを覚えなくても良いようにと、萌さん自身の精神的負担を軽減させるためでもあった。純粋にパニエと向き合う姿は、表現に嘘が無く、”踊らなくても魅せられる動き”だと考えたのであった。

 

④萌さんの巣篭り→私が参戦 ~デュエット~

 萌さんが動いている間、私は端っこでゆっくりと低い姿勢で萌さんを観察をしていた。動物の縄張り争いのように、威嚇するように見ていた。

 そこに、萌さんがパニエですっぽり体を包み、しゃがんで座り込むことを合図に、私が動き出す。萌さんを包むパニエを動かしたり、回したりして、私は野性的な動きを引き出される。

 そうやってパニエを共通の物として、萌さんと私の対立構造が生まれてしまった。私が自分の動きに対し、相手がどのようにリアクションするのかを無意識に求めて意識したのかもしれない。もう一人演者が居ると、相手の存在を無視せぬよう、反応を受け取りながら自分も動かなければと思う。萌さんもそうするように努めてくれていた。しかし身体言語が違い過ぎたのか、野性的な私に対し、少々戸惑って引き気味の萌さんという構図のデュエットとなってしまった。私はその場を走り去るようにして、パフォーマンスを終えた。

 

《一回目を終えて得られた反省点》

 私の集中力が会場全体を包むシリアスなムードの中で、自然体の萌さんが浮いて見えてしまった。(普通の人間とダンサーとしての人間の雰囲気のギャップ)

 一回目における萌さんは、ダンサーではないが演者側として参加してもらった。それが中途半端なポジションでパフォーマンスさせることになってしまった。何より萌さん自身にそれが違和感として残る形となってしまった。

 そこで…↓↓↓

 

【二回目(改良した構成内容)】

◎萌さんと私の差別化を図る

 ・視覚的に…萌さんの衣装を私服に。

 ・立場的に…萌さんは小さいノートと鉛筆を持ち、観客っぽい振る舞いをする。

 

◎構成内容の変更点

①2人で入場 

 →会場の中央ではなく、奥の絵画の下で行う。

  ヘアスタイルは一回目の続きという形で行う。

 

②私のソロ

 →私の変更はないが、萌さんがこのシーンの間、私を見ながら何やらノートにメモを取る。

 

③萌さんのソロ

 →私がパニエに包まれてすっぽり身体を隠すことを合図に、萌さんがメモを取った内容を口にして発する。(実際には、一回目のパフォーマンスを観た、萌さんの担当教授の感想の言葉を真似た。日本語である)

 言い終えたら、私は自ら脱皮するように蠢き始める。萌さんはあくまで観客側として、私に直接接触することは無い。

 

④デュエット

 →私がパニエを脱いで踊っている中で、萌さんのタイミングでまたノートにメモった言葉を発する。(実際には、英語で「What are you doing?」等と話す。これは私が一回目③のシーンで声に発してみようか、と思い立つもビビッて言えなかった言葉である。一回目のパフォーマンス後に萌さんはそれを私から聞き、用いたのであった。萌さんはこの言葉に続けて、いくつかの英文を発した)

 萌さんが言葉を発し終え、彫刻の"口"の部分にノートを入れる。その後、萌さんは完全に観客側に回り、私のパフォーマンスを見届けた。

 踊りながら私はそのノートを取り出し、開いて見てみた。中には殴り書きの英文(先ほど読まれた言葉たち)が書かれていた。私も同じようにその英文を口に出そうと息を吸ったが、殴り書き過ぎて難解だったことと、どもってしまって声が出なかったため、諦めてパフォーマンスを終息させるに向かった。

 

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 ざっくりとたが、このような結果となった。

 パフォーマンスを両方観た方に感想を聞くと、以下のような意見を頂けた。

 ・一回目の方が面白さはあり、パニエをよく活用していた。二回目の方は田中(私)がたくさん踊っていた。声があると映像を観ている感じに近く、2人がやり取りしている印象が強くなった。一回目と二回目、どちらにも良い味があった。

 ・二回目は、萌さんのシーンが少なくなることで見やすくなった。

 ・音のバリエーションで言えば、展示用のテレビから急に音が鳴っても面白かったかも。

  

  さて、私自身の感想をまとめます。

 まずは、音問題。無音の中でのパフォーマンスとしては、舞踏的な手段を極力用いずに無言劇的に成立できたのは良かったと思いました。しかし私なりにエンタメ要素を入れ込んだ割に、結構シュールな印象で終わってしまったなという印象。それはどうしても生まれてしまう無言の”間”を、甘い処理をしてしまったために、訳もなく深い深い問題の存在を彷彿とさせてしまったからかもしれません。間をどううまく扱うか、が次の課題となりそうです。

 次に萌さんという、踊らない人間の扱いについて。これは二回目の変更、これはほとんど萌さんからの提案であり、この、ダンサーである私が盲目になっていた部分への外部からの指摘によって、ぐっと改善されました。萌さんに感謝です。萌さんのポジションを萌さん自身が自信と安心をもって確立できたことで、私とのパフォーマンス中の関係性も明確になり、二回目はお互い表現に迷いが無くなっておりました。

 このことは、2人で表現することが、すなわち2人ともが同じ立場に立たなくても良いのだということの発見となりました。また、普通の踊らない人間のパフォーマンス部分への介入の難しさと、それ故の面白さも感じ得ました。

 

 実は来月の末(2022年9月)に、同展示の次回展vol.12が行われ、同じ会場にてパフォーマンスを行います。2022年版では萌さんという協力いただく他者はおらず、私単独でのパフォーマンスとなります。またブログでまとめます。

 

Openform的performance1 〜構想〜

2021年3月27日(土)10:30〜 / 14:30〜(全2回公演)

長岡市美術センターにて、パフォーマンスを行いました。

もう1年前のことですが、当時考えていたことを文字にしておこう。

 

このパフォーマンスで課せられた条件が以下。

・音的条件:無音。

・もの条件:壁面は他作家の平面作品展示。ムービングスペースは家崎萌の立体作品2体展示。

 

実際のパフォーマンス会場の様子

 

パフォーマンスのメイン目的は、家崎の作品とコラボすること。

因みに美術作品展示空間内でのパフォーマンスは、過去に何度か経験があり、本会場でも踊ったことがあった。

また家崎も、大学院の同期として親交が深い。

慣れている条件が多かったが、唯一何気に初めての挑戦だったのが無音環境である。

 

無音の中で踊る。

と言えば舞踏

真っ先に思い浮かんだが、果たしてこの会場において相応しいかは悩んだ。

というのもこの会場の一階は図書館であるため、二階の展示会場へは、何も知らない近隣住民が「ちょっと何かやってるから、ついでに観に行こう」程度に足を運ぶ。

それが良さでもあった。

普段、美術作品に触れない方々が気軽に観に来れるし、運営側も集客にも困らない。

そんなわけで予想されるパフォーマンスの客層は、自ずと悪い言い方をすれば”美術に疎い”方々。

そのような観客に向けて、いきなり無名の女が無音の中で舞踏を繰り広げたら、「時間の無駄だったな〜」と後悔させてしまうのではないかと恐れた。

数少ない、もしかしたら一生に一度となるかもしれない生身の人間によるパフォーマンス。

この貴重な体験を、少しでも「良い時間だった」と思ってもらうために仕掛けなければならない。

 

このことについては、観客に飽きさせないことが効果的手段と考えた。

退屈なパフォーマンス鑑賞体験は、なかなか次また観ようとは思いづらいだろう…

飽きさせない工夫としては以下の方法が挙げられる。

・音の使用

・場面転換

・色彩の豊かさ

・出演者を増やす

・大掛かりな道具の使用…等等

 

これらはエンターテイメント要素を増やすことに繋がっていると思われる。

エンターテイメント要素とは娯楽要素であり、キャッチーさや理解しやすさ、興じやすさ。

そういった要素をきっかけにして、観客にパフォーマンスに興味を持ち続けてもらいたい。

上記に挙げた方法を、なるべく今回の条件に合うように工夫した。

 

まず音。

こちらは先に挙げたように無音が条件ですので、音楽の使用は禁じ手です。

次に出演者。

これは手近なところで家崎萌に依頼しました。

色彩。

正直私は、今までのパフォーマンスであまり色を取り入れてきませんでした。

色にはそれぞれ見た時の印象があって、脳内で意味や個人的感情と結びついてしまう。

故に色ひとつ取っても、具体的なものを想起させる大きな要素となる。

だから安易に用いることができなかったし、私も踊っていると目に入ってくるので影響を受けてしまいます。

逆を言えば、色を取り入れると抽象性が薄くなり、観客にとっては思考のヒントになり得ます。

だから、今回は色を取り入れてみよう。

そこで、色を取り入れたモデルとして参考にしたのが、よしもと芸人の渡辺直美さん。

当時直美は活動拠点をアメリカに移すことで話題になっていましたが、私はその少し前から急激に好きになっていました。

新型コロナ蔓延によって表現者たちは表現の場を失い、露出の機会が急激に減っている現状。

そんな中で、直美はYouTubeInstagramのライブをし、我々一般市民を元気づけていました。

一方同時期に、家崎は家の一区画でできる交換創作の方法を模索しておりました↓

danceliving.hatenablog.com

 

自粛期間中でも、今出来得る表現を見出そうとしている姿。

そんな二人の逞しい姿から溢れるエネルギー。

 

当時の私は、このど田舎でどうやって腐らずにダンサーとして活動ができるのだろうと、絶望しておりました。

都会のWSや公演に参加できない未来が来るとは、予想外のことでした。

今目の前で、腐らずに奮闘している二人の女性からは、かなり勇気づけられました。

だからこそ、色彩を考えたときに真っ先に直美が浮かんだのだと思います。

 

世界で活躍している直美のファッションセンスは洗練されている。

そこに芸人としての、”人を楽しませたい”という根源的な欲求が反映され、直美のファッションは、パッとみて、人を元気にさせるような印象がある。

そういったエンターテイメント要素が、今回色彩に求めているところと合致したのだった。

 

結果。今回の私の衣装は、色彩学で”冷静”を表す青色とは真逆の赤色を選択した。

赤色は”情熱”を表す。

(参考👉【前編】「色彩の芸術家」に近づくための配色理論(基礎知識&色彩心理) | WebNAUT

 

実際のパフォーマンスの様子

また形状は動きに制限がなく、かつ露出の少ないサロペット型にし、近隣住民の目のやり場に困らないように心掛けた。

しかしその下に着る物はグレーのハイネックにし、美術展示会場に流れる静謐な空気感とのバランスを取った。

家崎の衣装も同様、観客の目のやり場に困らない、オーバーサイズの衣装を用意した。

私と同じくらい衣装の色味が強いと、ダンサーとして観客に認識されてしまうと思い、敢えて白を基調としたものを選んだ。

 

この写真に写っている白い物体。

これはよくドレスの下に着る、いわゆるパニエである。

衣装としての役割だけでなく、立体造形物であったり、バタバタと音を発生させるための道具であったりと、何かと遊びがいがある。

これを家崎が用いれば、「踊ろう!」と思わなくても自然と家崎なりの動きが出てくると思った。

また、家崎と私の二人が同じ次元に居るのだと、その繋がりを目に見える形で表現するために、共通で使用する道具とした。

踊る私と、踊らない家崎との、悪い意味での差を埋めたかった心理もあっただろう。

パフォーマンスでパニエを用いる家崎

さて、準備は大体このようなものだ。

では、パフォーマンス前における場面展開構成をどのように考え、実際の全2回のパフォーマンスではどのような結果となったか。

正直なところ、1回目のパフォーマンスではいくつか反省点を得ることができたため、2回目ではかなり内容を変更したのだ。

次回に続く。

戦争ノイズ

「戦争の反対にあるのは平和って言われますけど、戦争の一番反対側にあるのは音楽のような気がしてます。

 でも反対だけど、とてもよく似ているような気がしていて」

 

戦争と音楽の共通点として大友は、近代的な技術を使い、特に20世紀においては男性が集まり、他のバンドと勢力争いをしていたことを挙げる。

そのうえでなお、戦争の反対にあるのが音楽だと言いたいのだ、と。そしてこのように続ける。

 

「音楽の根っこにあるのはーー(これは)ぼくの考えです、ノイズだと思っていて。

 ノイズから音楽が生まれると思ってます。

 だけど、もしかしたらノイズから戦争も生まれるかもしれないなとも思っていて」

 by.大友良英

www.cinra.net

 

上記引用の大友さんのお言葉、私の心に引っかかって、留まりました。

戦争の反対。であるが似ているのが、音楽。

対義語の哲学的言葉遊びとして、太宰治人間失格』の最後の方に出てくる、

”無垢の信頼心は、罪なりや”を、ふと思い出しました。

 

大友さんの言葉に戻ります。

因みに本編において、太字は引用語としますね。

また大前提として、本編で私は大友さんを否定したい訳ではなく、

むしろ前衛的な姿勢とキャッチーな音楽性には前々から尊敬していることを先に述べておきます。

 

さて。

戦争の一番反対が音楽。

確かに戦争は、国境争いという意味合いが色濃いと思います。

”音楽に国境は無い”という考えからすると、戦争は真逆のものだと思います。

しかしこれはなかなか、言い切るのが難しい。(早速斬った)

大友さんがここで言っている「音楽」がどのような様相であるか、

すごく高尚なものかもしれないし、それは他人が侵すことのできない神聖なものかもしれません。

しかし歴史的に見ると、音楽は戦争と隣り合わせで、戦時下の人々に力を与えてきました。

例えば軍用歌を用いて国民感情を高めたり、逆に反戦歌で対抗したり。

また、敵国の音楽を禁止することで、その国との対立の姿勢を示してきました。

政治の道具としての音楽の顔もあるのです。

 

一方で大友さんも認めている、戦争と音楽はとてもよく似ている、という点。

彼が音楽の根っこと見ている「ノイズ」というキーワードから深掘り、私も考えていきたいと思います。

因みにダンス界で「ノイズ」と言えば、新潟拠点のダンスカンパニーNoismですね!

しかしNoismの語源は「No-ism=無主義」であり「ノイズ」とは関係なさそうです…

👉 カンパニーについて | Noism Web Site

 

また最近では「ノイズ」と言う名の物語もあります。

筒井哲也の漫画であり、2022年に映画公開もされました。

 ○漫画👉 ノイズ【noise】|集英社グランドジャンプ公式サイト

 ○映画👉 映画『ノイズ』オフィシャルサイト|大ヒット上映中!

物語のあらすじによると、「ノイズ」は「不協和音」「波紋」「凶悪犯」などと訳され、

何かスッキリとしない根深い問題、というような扱いになっています。

 

一般的に「騒音」と訳される「ノイズ」ですが、大友さんはどのように解釈しているのでしょうか。

2014年4月13日『題名のない音楽会』で放送された『ノイズが音楽を豊かにする~大友良英を作った3曲』内で、大友さんは「ノイズ」について以下のように語ります。

「一言では言えないですが……ジャンルというよりは考え方というか。よくわからないところがまた面白い」

また「ノイズ」のルールについては、「ルールを壊すのがルール」と。

realsound.jp

 

ここで、アートの領域で定められている「ノイズ」の定義を見てみましょう。

 

まずは美術手帖👉 ノイズ|美術手帖

こちらによると、音楽と非音楽、あるいは音響学の境界に位置するものとして、

やはりルールを壊すことは共通の価値観としてあるように思えます。

 

次に現代美術用語辞典👉 ノイズ | 現代美術用語辞典ver.2.0

こちらでも、慣例的に楽音とみなされる体系の外側に位置づけられ、しばしば異質性や過剰性、偶発性と結びつけられると言い、上記と同様の価値観を共有していました。

加えて、予測不可能なかたちで見出され、音楽の展開に不可欠のものとして、

「ノイズ」が音楽史において重要な存在であると言及されていると思います。

 

思えば古典的な西洋音楽では、「ノイズ」って嫌われる存在ですよね。

なるべくなら、「ノイズ」の無いクリアな音を求めますよね。

ノイズ・ミュージックとして認められた「ノイズ」は、元々はただの雑音です。

しかし時間を経て、音楽という大流へと汲み入られ、存在価値を増していったのだと想像できます。

しかしその場合の「ノイズ」は、多くの人が良い!良い!と熱狂したことで、

ただの「ノイズ」が芸術的に価値のあるものへと昇華していった。

良い!と思えたのは、「ノイズ」の使い手の手腕が優れていたからだと思います。

「ノイズ」でも、そういう使い方ならアリだよねって皆が賛同でき、そして新しい音楽が生まれるというサイクル。

ただの「ノイズ」とノイズ・ミュージックへと昇華できる「ノイズ」には、

恐らく本質的な違いは無いのでしょう。

 

では、戦争における「ノイズ」とは何か。

昨今のウクライナ対ロシア戦を例に取ると、まず第一に挙げられるのが、

プーチンの欧米への積年の恨み。

非民主主義を掲げたノイズ。

このノイズが果たして、皆に良い!良い!と認められているかどうかは、

地域や宗教によって賛否があるであるでしょうが、

一定数の賛同が得られているのも確かだと思います。

音楽の世界では「ノイズ」がノイズ・ミュージックへと昇華しましたが、

プーチンにおいてのノイズは、現在戦争へと昇華してしまいました。

 

「ノイズ」をどう活かすのかは、「ノイズ」の使い手に任されている。

「ノイズ」自身に罪は無いと思われます。

 しかし「ノイズ」をうまく活かせないと、「ノイズ」はただの雑音のまま。

 もしくは抹消したくなるほどの邪魔な「ノイズ」へと変わる。

 「ノイズ」は危うい。

 取り扱い方次第で、悪者にも救世主にも成り得る。

 ミュージックにも雑音にも成り得る。

 悲劇か、理想か。

 

戦争は終わってほしいと、切に願う。

でも各国の「ノイズ」は各国が認めてあげてほしい。

国のシステムや言語は国によって全く違うけども、同じホモサピエンスなのにな。

何もできない忸怩たる思い、それが私にとっての「ノイズ」ですや。