前回は境界について、みんなの意見をまとめました。
が、まとめながら、罪悪感を感じました。
みんなの言葉そのままでいいなって。
そのままで素晴らしいなって。
ですから、今回のhome回は、オンラインレッスン参加者の意見ではなく、レッスン事後に、私の周囲の仲間と話したり、自分で考えたりしたことをまとめたいと思います。
早速ですが、わたしは頭の中にもhomeって作れるものなんじゃないかって思ってます。
それは、バーチャルリアリティーの世界が世に流通し始めていることから思います。
デジタルの世界に強い友人がいるのです。通称かわしぃ(Twitter→@s_kawasy)
彼はまさしく、デジタルの世界に自分の「居場所」を作っています。
街があり、家があり、友達がいて。。
もちろんその友達も、中の人はリアルに生きる人間ですが、デジタルの世界では別の生命体として生きます。
彼は日頃より、仮面や全身スーツを身につけると安心感を覚えると言って、実行していました。
それは、外界との境界を作っている行為です。物理的境界を、自分の身体に最も近いところで作るのです。
彼は、SNSで
「「顔を隠すとは、自らの属性を取り外し
積極的に平等になること」
と述べていました。加えて、このように言っています。(掲載許可いただいてます)
「お祭りで必ずお面屋さんがあるのも、
神様が正体を隠して人間たちと一緒になって
分け隔てなく遊びたかったから…
ともいわれている。
顔。
少なからず人はそこで差をつけようとする。
それで、良いこともあれば悪いこともある。
たまには顔を取り外して
一休みしてもいいじゃない。」
人は、顔で属性を見出す。
前回の境界の世界にも通じる話ですが、特に心理的境界は、顔で判断しているところもあるかもしれません。顔って、言葉にならない感情も出ちゃっていますし、コミュニケーションにおいて、言葉以上に情報を与えてくれる。
かわしぃが、デジタルの世界にひとつの居場所を見つける。それは顔という生まれながらの、属性を判断する要素がない世界だからだと思います。
性別、年齢、容姿、地位、、
現実的なそれらを打開し、対等にコミュニケーションを取る手段として、仮面やスーツなどの身体のマスクがあり、デジタルの世界があるのだと感じます。
「居場所」という言葉はとても日本的な考えだと言うのが、立体アーティストであり、現在博士課程で研究をしている友人・家崎萌です。
何を研究しているかといえば、まさしく「境界」や「居場所」のことで、作品を作ること以上に"人間"に興味がある人です。
彼女はチェコに留学し、美術教育実践を踏みながら、自身の作品を展示するなど活動をしていました。そして、西欧と日本における文化や考えの違いについても体感したのです。
そんな彼女が見出した、homeに関するキーワードが、「居場所」と「アジール」です。
彼女曰く、「居場所」にイコールする英語が見当たらないそうです。(以降、「」取りますね)
確かに居場所って、homeに比べて面積や時間の幅が大きいような気がします。
homeの持っている故郷や我が家という意味に加え、居場所は、三角座りしたお尻と足の面積だけでも居場所になります。
例えば学校生活を送る中で、トイレだけが入った途端に一人になれて、自分だけの居場所になるなと思ったりします。
あとは、仲間が自分を受け入れてくれたときに、「あぁ、ここが私の居場所なんだわ」と、ホッとできたりもします。
こんな風に、居場所はほんの一時でも居場所として成立します。しかも場所だけでなく、人の中にも見出すことができる。
では、「アジール」とは?
このような意味があります。
「(独: Asyl、仏: asile、英: asylum)歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。ギリシア語の「ἄσυλον(侵すことのできない、神聖な場所の意)」を語源とする。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」ということになる。現代の法制度の中で近いものを探せば在外公館の内部など「治外法権(が認められた場所)」のようなものである。」
(Wikipediaより引用)
ここに書かれている、不可侵的な場所という意味。この神聖さは、西欧では教会の中で存在するものだと思います。しかしhomeにもこのような意味合いがあるように感じます。
だから、homeは安心できるということに加え、インナーチャイルドが癒やされる場所と思うのではないでしょうか。
赤ちゃんが生まれた瞬間って、すごく神聖です。そんな時間を蘇らせてくれるのが、アジールなのではと思うのです。
等身大の自分が存在して良い場所。
それがアジールであり、homeであり、居場所となる。そういったところでは、自分を解放できるかもしれませんね。