身体表現のじかん

ダンスは生と共に。

Openform的perfoamance2 ~実際~(本番写真未挿入;;)

パフォーマンス日時:3月27日(土) 10:30~、14:30~

この2回のパフォーマンスは、どちらも同じパフォーマンス内容を行う予定だった。

しかし一回目の反省を受け、二回目は修正を行い、パフォーマンス内容を一部変更した。

構成内容は以下の通りである。

※PC故障のため、本番写真は後日挿入。涙

 

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※会場の状態:展示会場に線を引いたり、物をどかしたりと手を加えずそのまま。

 

【一回目(本番までに準備してきた構成内容)】

①2人で入場 ~ヘアアレンジ~

 会場中央にしれっと座り込み、萌さんが私の髪の毛に造形的なアレンジを加える。

 日常空間に突然表れたピクニック的風景である。

 会場では私たち演者と観客とが同じ地上に存在し、照明や音響の効果を加えられない。だから、色鮮やかなモールや髪飾り、付け毛を加えて、私と観客との差異化を図った。また、観客の”パフォーマンスを見る”心の準備を促すと同時に、観客が自然とパフォーマンスに見入ることが出来るようにするための効果を狙った。

 

②俗っぽさを纏う人 ~私のソロ~

 入場から私が着ているパニエは、構想当初は”妖精”的な意味合いとして着ようとしていた。萌さんの彫刻に生えている”手”のようなものは、本人曰く”羽”なのだそう。羽は人間が本来持っていない部位であり、そうするとこの彫刻が聖獣のように思えてきた。そこで私は、萌さんの彫刻物と”同じ国”の生命体になるつもりで、やはりどこか空想的な、神話的な雰囲気を醸し出すようにと思ったのだった。

 しかし実際にこの彫刻2体と並んでパニエを着て立つと、私がまるで女王様のように見えてくる。彫刻1体の大きさが、パニエのスカートにすっぽり入るようなサイズ感だったので、彫刻が子どものように見えたからかもしれない。

 しかし後後になって分析してみると、パニエを着た私のシルエットが、かつて観劇したシルク・ドゥ・ソレイユアレグリア2』(2005年東京公演、私13歳)で登場する女性のシンガーにそっくりなことに起因していると気付いた。このシンガーの動きが実に俗っぽく、娼婦のような動きだなと鮮明に脳裏に焼き付いていたのだった。パニエを着た私=そのシンガーとしての立ち居振る舞いを、自ずと結びつけてしまっていた。

アレグリア2』シンガー(公演パンフレットより)

③私の脱皮→抜け殻(パニエ)で遊ぶ ~萌さんソロ~

 私の寝ころがるポーズを合図に、萌さんが脱力した状態の私の腕を引っ張り、私を端っこに寄せる。同時に引っこ抜けて会場中央に残るパニエ。そのパニエを萌さんが回したり、バサバサと音を立てたりして、色んなパニエの表情を見せながら遊ぶ。

 ダンサーではない萌さんでも動きが出せるようにと、道具(パニエ)を用いて自由に動いてもらった。特に振り付けを覚えなくても良いようにと、萌さん自身の精神的負担を軽減させるためでもあった。純粋にパニエと向き合う姿は、表現に嘘が無く、”踊らなくても魅せられる動き”だと考えたのであった。

 

④萌さんの巣篭り→私が参戦 ~デュエット~

 萌さんが動いている間、私は端っこでゆっくりと低い姿勢で萌さんを観察をしていた。動物の縄張り争いのように、威嚇するように見ていた。

 そこに、萌さんがパニエですっぽり体を包み、しゃがんで座り込むことを合図に、私が動き出す。萌さんを包むパニエを動かしたり、回したりして、私は野性的な動きを引き出される。

 そうやってパニエを共通の物として、萌さんと私の対立構造が生まれてしまった。私が自分の動きに対し、相手がどのようにリアクションするのかを無意識に求めて意識したのかもしれない。もう一人演者が居ると、相手の存在を無視せぬよう、反応を受け取りながら自分も動かなければと思う。萌さんもそうするように努めてくれていた。しかし身体言語が違い過ぎたのか、野性的な私に対し、少々戸惑って引き気味の萌さんという構図のデュエットとなってしまった。私はその場を走り去るようにして、パフォーマンスを終えた。

 

《一回目を終えて得られた反省点》

 私の集中力が会場全体を包むシリアスなムードの中で、自然体の萌さんが浮いて見えてしまった。(普通の人間とダンサーとしての人間の雰囲気のギャップ)

 一回目における萌さんは、ダンサーではないが演者側として参加してもらった。それが中途半端なポジションでパフォーマンスさせることになってしまった。何より萌さん自身にそれが違和感として残る形となってしまった。

 そこで…↓↓↓

 

【二回目(改良した構成内容)】

◎萌さんと私の差別化を図る

 ・視覚的に…萌さんの衣装を私服に。

 ・立場的に…萌さんは小さいノートと鉛筆を持ち、観客っぽい振る舞いをする。

 

◎構成内容の変更点

①2人で入場 

 →会場の中央ではなく、奥の絵画の下で行う。

  ヘアスタイルは一回目の続きという形で行う。

 

②私のソロ

 →私の変更はないが、萌さんがこのシーンの間、私を見ながら何やらノートにメモを取る。

 

③萌さんのソロ

 →私がパニエに包まれてすっぽり身体を隠すことを合図に、萌さんがメモを取った内容を口にして発する。(実際には、一回目のパフォーマンスを観た、萌さんの担当教授の感想の言葉を真似た。日本語である)

 言い終えたら、私は自ら脱皮するように蠢き始める。萌さんはあくまで観客側として、私に直接接触することは無い。

 

④デュエット

 →私がパニエを脱いで踊っている中で、萌さんのタイミングでまたノートにメモった言葉を発する。(実際には、英語で「What are you doing?」等と話す。これは私が一回目③のシーンで声に発してみようか、と思い立つもビビッて言えなかった言葉である。一回目のパフォーマンス後に萌さんはそれを私から聞き、用いたのであった。萌さんはこの言葉に続けて、いくつかの英文を発した)

 萌さんが言葉を発し終え、彫刻の"口"の部分にノートを入れる。その後、萌さんは完全に観客側に回り、私のパフォーマンスを見届けた。

 踊りながら私はそのノートを取り出し、開いて見てみた。中には殴り書きの英文(先ほど読まれた言葉たち)が書かれていた。私も同じようにその英文を口に出そうと息を吸ったが、殴り書き過ぎて難解だったことと、どもってしまって声が出なかったため、諦めてパフォーマンスを終息させるに向かった。

 

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 ざっくりとたが、このような結果となった。

 パフォーマンスを両方観た方に感想を聞くと、以下のような意見を頂けた。

 ・一回目の方が面白さはあり、パニエをよく活用していた。二回目の方は田中(私)がたくさん踊っていた。声があると映像を観ている感じに近く、2人がやり取りしている印象が強くなった。一回目と二回目、どちらにも良い味があった。

 ・二回目は、萌さんのシーンが少なくなることで見やすくなった。

 ・音のバリエーションで言えば、展示用のテレビから急に音が鳴っても面白かったかも。

  

  さて、私自身の感想をまとめます。

 まずは、音問題。無音の中でのパフォーマンスとしては、舞踏的な手段を極力用いずに無言劇的に成立できたのは良かったと思いました。しかし私なりにエンタメ要素を入れ込んだ割に、結構シュールな印象で終わってしまったなという印象。それはどうしても生まれてしまう無言の”間”を、甘い処理をしてしまったために、訳もなく深い深い問題の存在を彷彿とさせてしまったからかもしれません。間をどううまく扱うか、が次の課題となりそうです。

 次に萌さんという、踊らない人間の扱いについて。これは二回目の変更、これはほとんど萌さんからの提案であり、この、ダンサーである私が盲目になっていた部分への外部からの指摘によって、ぐっと改善されました。萌さんに感謝です。萌さんのポジションを萌さん自身が自信と安心をもって確立できたことで、私とのパフォーマンス中の関係性も明確になり、二回目はお互い表現に迷いが無くなっておりました。

 このことは、2人で表現することが、すなわち2人ともが同じ立場に立たなくても良いのだということの発見となりました。また、普通の踊らない人間のパフォーマンス部分への介入の難しさと、それ故の面白さも感じ得ました。

 

 実は来月の末(2022年9月)に、同展示の次回展vol.12が行われ、同じ会場にてパフォーマンスを行います。2022年版では萌さんという協力いただく他者はおらず、私単独でのパフォーマンスとなります。またブログでまとめます。