身体表現のじかん

ダンスは生と共に。

おどり場 ~第34回全日本高校・大学ダンスフェス~

今月末から始まるグループ展「エックス展 vol.12」で、どのようなパフォーマンス内容にするのかを、最近はずっと考えている。

 

我々が生きる現代の時代背景や世界情勢、世間に流れる雰囲気。

それを捉えて作品を作ることは、コンテンポラリーダンサーとして必要だと思う。

だから今回、現代の現実をどのくらいのレベルで作品へ落とし込もうか、そのチューニングに悩んでいた。

そんな中テレビを付けたら、たまたま「第34回全日本高校・大学ダンスフェスティバル」が放映されており、見てみた。

www.nhk.jp 

 

なぜ見ようと思ったか、三つほど理由がある。

一つは先ほど述べた、現代における状況をいち早く反映したであろう作品が、いくつか完成された状態で見られると思ったからである。

放映された作品を見ると案の定、”コロナ”・”戦争”・”災害”という、我々が目下直面している現実問題をテーマにした作品が多かった。

二つ目は、一つ目とも繋がるが、若者が今どんな問題に関心を持っているのか、作品のテーマとそのパフォーマンス内容を通して、知りたかったからである。

もし私がダンス部の顧問だった場合、大人からのバイアスはかかれど、作品の主要テーマは生徒・学生たちに決めさせるだろう。

それは子どもたちの作品への興味関心・主体性を持たせると同時に、大会までのモチベーションやその後の達成感まで、大きく気持ちへ影響する大事な導入部だと思う。

そんな仮定を前提の上で、私が作品のテーマ性を通して見ていたのは、若者たちの生々しい無意識の生き感覚である。

そんなの、作品のテーマというメタ認知されたもの(可視化)からは見えない、と思うだろう。それでも私は、透視するように見たかったのだ。

なぜって若者は、社会にまだ出たことの無い存在は、精神的に不安定であり、安全である。

そして人間は隠すことが出来ない。

特に舞台の上に立ってしまうと、その者が丸裸になる。

 

自分たちが決めたテーマと、舞台上に立つ自分たちの佇まいから見える無意識の思考、そのギャップを見つめることで、若者たちがどんな生き感覚を持っているのか、例えば彼ら・彼女たちの普段の生活まで感じ得るようなことを試みていた。

 

また今の若者なんて、私からしたらかなり別次元の思考の持主なのである。私の世代よりずっとグローバルで、フレキシブルで、スマホネイティブであるからして、こう若者の舞台を見ると、より足元のリアリティーが見えるような感覚になるのである。

もちろん振り付けは顧問が担当していることもあるだろうが、それを踊る当人たちの表現力や結束感、個人個人の表情などに注目したのだった。

 

さらに三つ目、これも二つ目と繋がってくるのだが、現代におけるダンスの流行りを見たかった。

パフォーマンスにも流行があるのである。

衣装の感じや、音や間の使い方、髪型など、世風が反映されたものになる。

こういった要素も若者の方が感性やアンテナが鋭敏であるため、斬新なスタイルも生まれやすいのでは。

…以上が主な視聴理由(下心)である。

 

さて。

かくしていくつもの作品を見終った後の正直な感想としては、「もう、戦争の話はいいよー!!!」という飽き心であった笑

胸焼けするほどの”悲惨さ・非道さ・無力さ”という、まさに現代に対する感情の表れにお腹いっぱいになった笑

「知ってるよー!!!」と言う具合。

 

だから衣装や舞台照明も、なんとなく斑模様が多く、馬鹿っぽいふざけたビジュアルは無かったと思う。

十数年前くらいに見た同番組の同大会では、もうちょっと子どもっぽいものもあったのだ。

チャップリンの軽快な感じとか、カエルやカタツムリなんかの生態だとか、寿限無や落語の話とか…

お気楽に見れるものも多かった。

時代だ。と言えば本当にその通りなのだが、そんなおふざけ作品が学校のダンス部から薄れているのは悲しみも一抹。

 

それよりももっと伝えたいことが現代の若者の中にあって、その感覚こそが嘘偽りのない自分の生き心地なのだろうな。

世に対する正義感が強い。

しかしまあ私も同じ年代だったら、自らの正義感を奮い立たせて、作品にしたくなるほどの強い感情を抱いて生きていたと思う。

また、正義vs悪の対立構造は、作品として見やすいし、作る側も構成しやすい。

 

またメンバー構成もかつてはバリエイションがあった。生粋のダンス部だけではなく、不足人数分を他の部活動から生徒をかき集めたとか、ダンス経験の有無に関係なくクラス皆で参加したとか、かなりチャレンジングなこと。

 

この度の実際テレビの中で踊っている若者たちは、そのインタビューも含めて見るに、「大人っぽいな~」という印象であった。

そのクールさや聞き分けの良さが、ダンスの節々に表れているように見えた。

気抜けた感じが無く、無駄が無い感じ。

その理由としては、現代がネット社会であり、地方でも上等の衣装が調達できたり、質の良いレッスンがオンラインによって受けられたりと、全体的に洗練さが増したと見えたからかもしれない。

またSNSの普及によって、一般人でも被写体として”魅せる”こと、その自己プロデュース力が、若者にとっては当然のスキルとして根付いていることもあるだろう。

つまりは若者ダンサーの質が、過去に比べ平均的に上がり、一方では均質化されているとも見える。

癖の強い動き方や、素人っぽい立ち振る舞いが消えていっているのではないかと思われるのだ。

ダンスや表現経験が増して魅せることに慣れ過ぎると、個性のあるダンス表現は出来ないのか、と言えばそうでは無い。

 

番組では、生徒・学生たちが「コロナ下で皆で集まっての十分な練習ができない」現実に触れられていた。

だから練習においては、いかに最短距離で効率的に作品に仕上げるか、という方法でしか出来なかったんだと思う。

冒険よりは正攻法。

そして、日常の生活がいつ脅かされるとも分からない不安と警戒心。

若者たちからしたら、熱くなっていいのやら、何やら、、という諦念感と戸惑いもあったろう。

 

自分の持っている100%のパッションを発揮して、仲間とそれをぶつけ合って錬成させていく、みたいな時間は取れない。

放課後までずるずる皆で集まって夜遅くまで踊り狂う…きっとそんな”無駄”な時間は取ってはいけないのだ。

しかしその時間が、社会的には無力な若者たちに”無駄”な自信を与えるのだがね。

それが舞台上で自分たちを後押しするパワーになる。

 

このようにして、おそらく私が今回視聴して感じ得られた若者たちの”無駄”の無さは二面ある。

一面は、技術的表現に歪さの無いところ。

二面は、根拠の無い自信が見えづらいところ。

 

とかなんとかエラそうに言っちゃって~

生徒さん、学生さん、顧問先生方、運営スタッフの皆さん、親御さん、本当にお疲れ様でした。

 

最後に、個人的にはこの時期に人の作品を客観視できたのは良かった。

人の作品を見ながら「では自分はどうするのか?」をもちろん問うていた。

主たる命題は未だ解けず、身体は雲に包まれている。