身体表現のじかん

ダンスは生と共に。

境界とhome2 〜境界〜

湯浅永麻さん&オンラインレッスン参加者による対話、第1回目「境界」において、集まった意見たちを以下にまとめます。

尚、引用する内容は、湯浅さんのHPに掲載された、各参加者の意見を主に用います。

論文ぽくなるかもしれませんが、論文では無いため、細かな引用脚注は省きます。わたしは、参加者の意見を継ぎ接ぎしながら繋いぐように、文章にしていきます。「」が付いていないところにも、参加者の意見が散りばめられています。ブログという形で、分かりやすく伝えたいです。

でも、私の眼鏡が入ってしまうことはご容赦ください。。

 

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【1 境界の所以】

ものの概念は、言葉によって生まれます。今まで無意識に捉えていたものを言語化すると、世界には「〇〇であるもの」と「〇〇でないもの」に分かれます。ある基準によって区切られ、間には境界が出来る。

なぜ、2者に分かつことが出来るのかというと、元々2者は、異なるものであったからです。

ではさらになぜ、2者に分ける必要があったかというと、自分たちが何者かを知りたいからです。分けられた内の、どちらのグループに属しているのか。これを知ることで、自分を知る。そこには、ワンネス(宇宙意識と繋がること。生まれる前の状態であり、生きていくと忘れていく感覚。ヨガなどで取り戻すとされる。スピリチュアル用語)を思い出す恐れから来るのかもしれません。

ちなみに境界は仏教用語にもあり、「果報として各自が受ける境遇。六境。認知作用·思考作用を起す「眼·耳·鼻·舌·身·意」の六根の対象。六塵とも呼ぶ。」という意味だそうです。

 

 

【2 境界の分類】

参加者が挙げた、境界に関するいくつかの例を分類すると、以下の3タイプに分けられると思います。

 

 ①物理的境界

 ②便宜的境界

 ③心理的境界

 

↑それぞれを説明していきます。↓

 

①物理的境界

=化学的・物理的な境界を指す。視覚的に捉えることができる。

 

化学の世界では、境界を"界面"と言い表すそうです。このことについて考えた参加者は、以下のような例を挙げました。

「例えば水面は水と空気の界面と呼んだりしますが、ダンスは肌という空間と体内の界面が動いているように受け取ることが多いです。同じようにウイルスが取り付く細胞壁も界面で、人間が外に出なくなって動物が街にでてきた光景も両勢力の界面が動いたように見えます。いまいろんな界面が躍動しているように見えます。」

 

水に着眼点を持った参加者は他にもおり、以下のような例を挙げられました。

スーパー銭湯の炭酸風呂に入ると

小さい泡のつぶつぶがびっしり皮膚にならぶ。

炭酸風呂と私の境界に、泡つぶがならぶ。

そう言えば、炭酸水にレモンをギュッと絞って入れたらジュワワって音がなる。レモン汁と炭酸水の境界に泡がうまれて、はじけてジュワワと鳴る。

「ジュワワ」は境界線の音なのか?

水に絵の具を垂らすと

そこには水と絵の具の境界線がうまれる。

金魚のひれみたいに、ひらひらゆらゆら形をかえながら、ゆっくりと下降する。

最初はダイナミックにドラマチックにみえた境界線がだんだんぼんやりとしてくる。

絵筆を水の中でバシャバシャと横に振ると境界線は散らばって

水は水じゃなくなって

絵の具はもとの絵の具じゃなくなる。

あの清廉な水にひらひらゆらめいていた境界線はもどってこない。」

 

建築においては、以下のように例があがりました。

「以前、私も「境目」をテーマに古民家で作品創作をしました。その時に、建築家が、日本家屋は、障子やふすまなどを取り外し可能で、使用用途によって部屋の境目を変えられる。その機能は西洋建築にはないこと、と言っていたのが印象的でした。」

 

このように、誰が見ても納得の境界が、例として挙げられます。言い換えると、客観性があるとも言えるのではないでしょうか。​ 

 

「私たちの細胞の中にいるミトコンドリアは別の生き物でありながらも私たちはそれなしでは生きていけず、「どこまでが自分でどこからが自分でないか」ということすら、定義するのが難しいのではないかと思います。ただ、実際に境い目がないものに対して「このような境い目があることとする」という定義付けをしなければ、私たちのコミュニケーションやさまざまなやりとりが成り立たない社会に生きているというのも事実ではないかと思います。私たちが「口」と呼ぶものは、実際には粘膜が外部に出ている部位を主に指しているだけで、実際に境い目をつけて口だけを差し出すことはできません。けれど「口」という概念がなければ、私たちの生活のさまざまなところに支障がでるのではと思います。」

という意見もありましたが、こちらは次に挙げた便宜的境界にも通じるものがあります。

 

 

②便宜的[外的]境界

=世界の秩序を保つための境界を指す。

例えば、人種、国境、生死、性差。。

これらは、社会的"常識"として、広く認知されているものである。これも、客観的と言えば客観的。

 

しかし、ときにこの種の境界は、強く反発を受けます。それは、その境界が、そのグループへのラベリングとして機能してしまうからです。生まれた国、人種、性別は、自分で選んだ訳ではない。それなのに、世間から不条理にラベリングされる。

便利な境界だが、使い方を誤ると、不要な争いへと繋がってしまいます。

参加者からは、以下のような意見が出ました。

「国境(難民、戦争)制度(民族差別やカーストなど)元々はっきりしていた国に比べると今の日本はまだ自分での選択肢は多いのだろうとは思うけれど、今からどうなるか分からないのかなと思いました。」

「性差の違いは受け入れるべきで、例えば、女性にしかない月経は、必要不可欠なものであり、それを疎ましく思ってはならないのだと考える。

性差における生来の能力の違いは、尊敬し合うべき。

だか、一方で、政治や医療の世界において、男女差が関係ない分野において、女性初の〇〇などと聞くと、いつも違和感を感じざるを得ない。

あるコンテ教師に、振り写しの際、女性らしくといわれ、「ん?」とも思う。

バレエ作品のように明文化されたキャラクターにおいて、「演じる」ことをしさえすれば良いかもしれないが。」

「境界とは、永遠の論点であり、一つに決めることができないもの、だと思います。例えば、国境も便宜上引かれたものであり、文化であったり、歴史であったり、違う観点から見ると違う境界が出てくる。そして、それを巡って戦争になる。

人は何でも白黒つけたがるのですが、人それぞれ白黒のボーダーラインが異なるので、絶対その意見が一致することは無いと思います。」

これらにあるように、境界における物議は絶たないだろうと思われます。

 

一方で、

「人種、国境、生死に関して言えば、先進国で、島国である日本という国で今まで長く生きている自分にはイメージしにくいです。

なので長く海外に住んでいた人のお話を聞いてなるほど、と思うだけです。

実際現地に行ったり見たりして、肌で感じ、自分とは違うという立場だと感じた時が"境い目"になるのかなと思います。」

という意見もありました。

この問に応じたような意見もあり、以下のように答えています。

「人種についてもたくさん考えます。日本人は特異だと思うからです。これは世界各国から人が集まるダンスキャンプに参加した時に実感しました。文化·言語の違いは私たちの身体にも顕著に現れていたと思います。西洋の人のあのオープンで少し不器用そうな身体は自分たちとの差を実感しました。それが何から生まれるのか、文化·言語·気候·土地など様々な要素からなっているのだろうと考えました。その違いは私にとって興味深かったです。」

 

このように、便宜的境界を前提にして交流しても、境界の向こう側と実際に顔を合わせ、触れ合うと、向こう側へ興味が持てるようになることもあります。

境界を超えるということを、自分の身体をもって体験すると、価値観が変わるのかもしれません。

元々境界なんて無かったのだ、と思えることも起こり得ますね。

 

 

心理的[内的]境界

=上記①②に当てはまらないもの。身近な人間関係において発生することが多い。

 

現代に生きる若者に取り巻く身近な境界として、以下の例があります。

「境目と聞いて、一番に浮かぶのは「自己と他者」の境目です。一昔前に比べ、SNSの発達もあって、他者との距離が近くなっているような気がします。このように外で人と会えなくなった今でも、オンラインで人と繋がれて、便利だなと感じます。一方で少し恐ろしさも感じます、、、私は中学生からLINE、Twitterを使用し、友人や、ともすると会ったこともない人たちと気軽にコミュニケーションを取っていました。ですから朝ドラでの、文通で愛を育んだという内容には驚きました。その頃と比べると、圧倒的に自己と他者の境目の壁は薄くなっているのだろうなと思います。久々に会う人とは、「久しぶり~」と言った次の瞬間には「でもあんまり久しぶり感ないね!」「インスタみてるからかな」という会話を必ずします。こんな時私は、少しの違和感を覚えつつもそれを自分でかき消しているような気がします。小さい頃からSNSを使用している影響か、私はふとした時に自己と他者の境界がわからなくなることがあります。その感覚は、インターネットで簡単に情報を得られるようになった、情報の過共有化によっても引き起こされていると思います。

 自己と他者の境目を違う視点で考えると、長い時間一緒にいると、その人らしさ、みたいなものが現れてくるのが面白いと思います。実体験としては、同じ大学に通い、同じ作品を踊り、同じ授業を受け続けて4年目になる友人たちがいるのですが、一緒に過ごしているとその人の考えていることがだいたいわかるようになりました。(もちろん時にはちゃんと口に出して意見し合わないと行けないこともあるのですが。)この状況は境目が薄くなってきていると言っていいと思います。」

 

他者との間に境界はあるのか、ないのか。

SNSは、人間関係を築く上で、欠くことのできないツールとなってきています。若者にとっては、必須アイテムではなかろうかと思います。

SNSというツールは、他者との境界の形を変容させているのかもしれません。

 

一方で、"若者"より年齢を重ねた参加者は、以下のように述べています。

「人との距離は近づきすぎてもいけないというが、私自身は人には近づいて、踏み入って欲しくない時が多々ある。

壁があえて必要な時、どのように表せばいいのか、悩む。

だんだんと老いてゆき、人から取り残され、社会から置いていかれる事に対し、社会との境を作る事で自分を守っているように感じている。」

生きる手段としてあえて境界を作るということは、便宜的境界とも通じるかもしれません。

 

※②便宜的境界と③心理的境界は、正直重なる部分が多いです。あえて線を引くとしたら、境界の発生源が[外的]か[内的]かという点かなと思い、分けさせていただきました。

 

【3 境界との上手な付き合い方】

前章では、境界に関する様々な例を見てきました。

では、生きながらに向き合わなければならない境界と、どのように付き合っていくのがよいのか。

前章でもチラチラとキーとなる糸口が出ていましたが、本章でも改めてまとめてみます。

特に、便宜的境界と心理的境界においてです。主観的なものの見方や価値観が出てくるため、これらの境界を論点にすると、モヤモヤっと話がまとまらないことが多いでしょう。

しかし、そこで道標となるのが、物理的境界です。便宜的・心理的境界でも活きる考え方を、物理的境界から倣うことが出来ると思います。

 

まずは、境界との付き合い方を見ていきましょう。こんな意見がありました。

 

「グループの優劣に目をつけてしまったとき、「境い目」にすごく意味が生まれるのだと思います。

また、「境い目」という言葉に何かがリセットされるようなニュアンスを感じますが、これも私たちの「境い目」を濃くしている要因の一つだと思います。

「境い目」のこちらと向こうは本来同じものをわけただけのはずが、「境い目」が元から概念としてあるとまったく別の何か同士が存在しているような感じがします。人と人をわけるだけではなく、時間軸の「境い目」に関しても同じことが言えます。私たちは「境い目」によってすべてがリセットされているわけではないひと続きの流れや広がりの中にいることを自覚するべきだと思います。」

 

これは、日本建築と通じるところがあります。

取り外し可能な襖や障子で、空間の仕切りを変えても、土台は同じで、ひと続きに繋がっています。

 

「薄くした方がいい境目と、厚くした方がいい境目と、そのままにしておきたい境目」

という表現をしている参加者もいました。

境界は、厚さや密度、強度においてバリエーションが出せるのだと分かります。そしてそのことは建築にも通じます。

 

水に絵の具を垂らす。

という物理的境界の例に近いのが、以下の意見です。

「境い目が曖昧になるとき、境い目が溶けてなくなるときが快感や悦びと繋がるような感覚があります。臨死体験がよく快感と結びつけられるのは、自分がどこから始まってどこで終わるのかわからない感覚に陥るからという考察とも繋がるように思っています。」

 

このように、はじめに境界があったものが、段階を経て、境界が無くなったように感じられる場合もありますね。

境界は有るものだとしても、それをどのように認識するかで、見える世界が変わってくるのだと思います。

 

逆に、こんな見方もありました。

「同時に、物事を細かくみる、いろいろなものに境い目を作ってその関係性をみることもすごく大切なことだと思います。初めて眼鏡をかけたときの感動---いままで木というのは緑のモヤモヤしたものだと思っていたけれど、枝があって葉っぱがあって、その表面には葉脈があって、木漏れ日がキラキラしているという風景に出会えた感動---とリンクする感覚です。世界まるごとをもっと敏感に、感受性豊かに知覚するためには、境い目を作って物事を考察することも大切なのかなと考えています。」

 

境界を溶かすこと(有から無へ)と、境界を捉えること(無から有へ)。

ベクトルは違えど、境界によって感情が動かされるのは確かだと思います。

これらの方法は、境界を悪者扱いせず、共存しながら上手に付き合っていく方法で、忘れないようにしたい観点です。

 

最後に、湯浅さんの言葉を載せます。

オンラインの対話でも、以下のことを強調して仰っていたように思います。

自分の境界内だけではなくて、向こう側の存在も知ること、自分が当てはまること以外のことにも目を向けることは必要だなと思います。

実際に体験する、経験することができるのが一番ですが、それができなくても想像してみる

そうでなければ、そうでなくとも、自分(自国)第1主義になりがちで、孤立したり過度のナショナリズムになってしまう。。

こんなコロナ時代は特に。」

 

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以上が、私なりのまとめです。

参加者さんや湯浅さんの貴重なご意見を、ふんだんに使わせていただきました。

参加者、湯浅さん、読んでくださった方々、ありがとうございました!