「戦争の反対にあるのは平和って言われますけど、戦争の一番反対側にあるのは音楽のような気がしてます。
でも反対だけど、とてもよく似ているような気がしていて」
戦争と音楽の共通点として大友は、近代的な技術を使い、特に20世紀においては男性が集まり、他のバンドと勢力争いをしていたことを挙げる。
そのうえでなお、戦争の反対にあるのが音楽だと言いたいのだ、と。そしてこのように続ける。
「音楽の根っこにあるのはーー(これは)ぼくの考えです、ノイズだと思っていて。
ノイズから音楽が生まれると思ってます。
だけど、もしかしたらノイズから戦争も生まれるかもしれないなとも思っていて」
by.大友良英
上記引用の大友さんのお言葉、私の心に引っかかって、留まりました。
戦争の反対。であるが似ているのが、音楽。
対義語の哲学的言葉遊びとして、太宰治『人間失格』の最後の方に出てくる、
”無垢の信頼心は、罪なりや”を、ふと思い出しました。
大友さんの言葉に戻ります。
因みに本編において、太字は引用語としますね。
また大前提として、本編で私は大友さんを否定したい訳ではなく、
むしろ前衛的な姿勢とキャッチーな音楽性には前々から尊敬していることを先に述べておきます。
さて。
戦争の一番反対が音楽。
確かに戦争は、国境争いという意味合いが色濃いと思います。
”音楽に国境は無い”という考えからすると、戦争は真逆のものだと思います。
しかしこれはなかなか、言い切るのが難しい。(早速斬った)
大友さんがここで言っている「音楽」がどのような様相であるか、
すごく高尚なものかもしれないし、それは他人が侵すことのできない神聖なものかもしれません。
しかし歴史的に見ると、音楽は戦争と隣り合わせで、戦時下の人々に力を与えてきました。
例えば軍用歌を用いて国民感情を高めたり、逆に反戦歌で対抗したり。
また、敵国の音楽を禁止することで、その国との対立の姿勢を示してきました。
政治の道具としての音楽の顔もあるのです。
一方で大友さんも認めている、戦争と音楽はとてもよく似ている、という点。
彼が音楽の根っこと見ている「ノイズ」というキーワードから深掘り、私も考えていきたいと思います。
因みにダンス界で「ノイズ」と言えば、新潟拠点のダンスカンパニーNoismですね!
しかしNoismの語源は「No-ism=無主義」であり「ノイズ」とは関係なさそうです…
また最近では「ノイズ」と言う名の物語もあります。
筒井哲也の漫画であり、2022年に映画公開もされました。
○漫画👉 ノイズ【noise】|集英社グランドジャンプ公式サイト
○映画👉 映画『ノイズ』オフィシャルサイト|大ヒット上映中!
物語のあらすじによると、「ノイズ」は「不協和音」「波紋」「凶悪犯」などと訳され、
何かスッキリとしない根深い問題、というような扱いになっています。
一般的に「騒音」と訳される「ノイズ」ですが、大友さんはどのように解釈しているのでしょうか。
2014年4月13日『題名のない音楽会』で放送された『ノイズが音楽を豊かにする~大友良英を作った3曲』内で、大友さんは「ノイズ」について以下のように語ります。
「一言では言えないですが……ジャンルというよりは考え方というか。よくわからないところがまた面白い」
また「ノイズ」のルールについては、「ルールを壊すのがルール」と。
ここで、アートの領域で定められている「ノイズ」の定義を見てみましょう。
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こちらによると、音楽と非音楽、あるいは音響学の境界に位置するものとして、
やはりルールを壊すことは共通の価値観としてあるように思えます。
次に現代美術用語辞典👉 ノイズ | 現代美術用語辞典ver.2.0
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こちらでも、慣例的に楽音とみなされる体系の外側に位置づけられ、しばしば異質性や過剰性、偶発性と結びつけられると言い、上記と同様の価値観を共有していました。
加えて、予測不可能なかたちで見出され、音楽の展開に不可欠のものとして、
「ノイズ」が音楽史において重要な存在であると言及されていると思います。
思えば古典的な西洋音楽では、「ノイズ」って嫌われる存在ですよね。
なるべくなら、「ノイズ」の無いクリアな音を求めますよね。
ノイズ・ミュージックとして認められた「ノイズ」は、元々はただの雑音です。
しかし時間を経て、音楽という大流へと汲み入られ、存在価値を増していったのだと想像できます。
しかしその場合の「ノイズ」は、多くの人が良い!良い!と熱狂したことで、
ただの「ノイズ」が芸術的に価値のあるものへと昇華していった。
良い!と思えたのは、「ノイズ」の使い手の手腕が優れていたからだと思います。
「ノイズ」でも、そういう使い方ならアリだよねって皆が賛同でき、そして新しい音楽が生まれるというサイクル。
ただの「ノイズ」とノイズ・ミュージックへと昇華できる「ノイズ」には、
恐らく本質的な違いは無いのでしょう。
では、戦争における「ノイズ」とは何か。
昨今のウクライナ対ロシア戦を例に取ると、まず第一に挙げられるのが、
プーチンの欧米への積年の恨み。
非民主主義を掲げたノイズ。
このノイズが果たして、皆に良い!良い!と認められているかどうかは、
地域や宗教によって賛否があるであるでしょうが、
一定数の賛同が得られているのも確かだと思います。
音楽の世界では「ノイズ」がノイズ・ミュージックへと昇華しましたが、
プーチンにおいてのノイズは、現在戦争へと昇華してしまいました。
「ノイズ」をどう活かすのかは、「ノイズ」の使い手に任されている。
「ノイズ」自身に罪は無いと思われます。
しかし「ノイズ」をうまく活かせないと、「ノイズ」はただの雑音のまま。
もしくは抹消したくなるほどの邪魔な「ノイズ」へと変わる。
「ノイズ」は危うい。
取り扱い方次第で、悪者にも救世主にも成り得る。
ミュージックにも雑音にも成り得る。
悲劇か、理想か。
戦争は終わってほしいと、切に願う。
でも各国の「ノイズ」は各国が認めてあげてほしい。
国のシステムや言語は国によって全く違うけども、同じホモサピエンスなのにな。
何もできない忸怩たる思い、それが私にとっての「ノイズ」ですや。