身体表現のじかん

ダンスは生と共に。

境界とhome3 〜home〜

前回は境界について、みんなの意見をまとめました。

が、まとめながら、罪悪感を感じました。

みんなの言葉そのままでいいなって。

そのままで素晴らしいなって。

ですから、今回のhome回は、オンラインレッスン参加者の意見ではなく、レッスン事後に、私の周囲の仲間と話したり、自分で考えたりしたことをまとめたいと思います。

 

早速ですが、わたしは頭の中にもhomeって作れるものなんじゃないかって思ってます。

それは、バーチャルリアリティーの世界が世に流通し始めていることから思います。

デジタルの世界に強い友人がいるのです。通称かわしぃ(Twitter→@s_kawasy)

彼はまさしく、デジタルの世界に自分の「居場所」を作っています。

街があり、家があり、友達がいて。。

もちろんその友達も、中の人はリアルに生きる人間ですが、デジタルの世界では別の生命体として生きます。

 

彼は日頃より、仮面や全身スーツを身につけると安心感を覚えると言って、実行していました。

それは、外界との境界を作っている行為です。物理的境界を、自分の身体に最も近いところで作るのです。

彼は、SNS

「「顔を隠すとは、自らの属性を取り外し
積極的に平等になること」
と述べていました。加えて、このように言っています。(掲載許可いただいてます)

「お祭りで必ずお面屋さんがあるのも、
神様が正体を隠して人間たちと一緒になって
分け隔てなく遊びたかったから…
ともいわれている。

顔。

少なからず人はそこで差をつけようとする。
それで、良いこともあれば悪いこともある。

たまには顔を取り外して
一休みしてもいいじゃない。」

 

人は、顔で属性を見出す。

前回の境界の世界にも通じる話ですが、特に心理的境界は、顔で判断しているところもあるかもしれません。顔って、言葉にならない感情も出ちゃっていますし、コミュニケーションにおいて、言葉以上に情報を与えてくれる。

かわしぃが、デジタルの世界にひとつの居場所を見つける。それは顔という生まれながらの、属性を判断する要素がない世界だからだと思います。

性別、年齢、容姿、地位、、

現実的なそれらを打開し、対等にコミュニケーションを取る手段として、仮面やスーツなどの身体のマスクがあり、デジタルの世界があるのだと感じます。

 

「居場所」という言葉はとても日本的な考えだと言うのが、立体アーティストであり、現在博士課程で研究をしている友人・家崎萌です。

何を研究しているかといえば、まさしく「境界」や「居場所」のことで、作品を作ること以上に"人間"に興味がある人です。

彼女はチェコに留学し、美術教育実践を踏みながら、自身の作品を展示するなど活動をしていました。そして、西欧と日本における文化や考えの違いについても体感したのです。

そんな彼女が見出した、homeに関するキーワードが、「居場所」と「アジール」です。

彼女曰く、「居場所」にイコールする英語が見当たらないそうです。(以降、「」取りますね)

確かに居場所って、homeに比べて面積や時間の幅が大きいような気がします。

homeの持っている故郷や我が家という意味に加え、居場所は、三角座りしたお尻と足の面積だけでも居場所になります。

例えば学校生活を送る中で、トイレだけが入った途端に一人になれて、自分だけの居場所になるなと思ったりします。

あとは、仲間が自分を受け入れてくれたときに、「あぁ、ここが私の居場所なんだわ」と、ホッとできたりもします。

こんな風に、居場所はほんの一時でも居場所として成立します。しかも場所だけでなく、人の中にも見出すことができる。

 

では、「アジール」とは?

このような意味があります。

「(独: Asyl、仏: asile、英: asylum)歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。ギリシア語の「ἄσυλον(侵すことのできない、神聖な場所の意)」を語源とする。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」ということになる。現代の法制度の中で近いものを探せば在外公館の内部など「治外法権(が認められた場所)」のようなものである。」

Wikipediaより引用)

 

ここに書かれている、不可侵的な場所という意味。この神聖さは、西欧では教会の中で存在するものだと思います。しかしhomeにもこのような意味合いがあるように感じます。

だから、homeは安心できるということに加え、インナーチャイルドが癒やされる場所と思うのではないでしょうか。

赤ちゃんが生まれた瞬間って、すごく神聖です。そんな時間を蘇らせてくれるのが、アジールなのではと思うのです。

 

等身大の自分が存在して良い場所。

それがアジールであり、homeであり、居場所となる。そういったところでは、自分を解放できるかもしれませんね。

 

私のアジール兼home兼居場所は、日本海です↓
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境界とhome2 〜境界〜

湯浅永麻さん&オンラインレッスン参加者による対話、第1回目「境界」において、集まった意見たちを以下にまとめます。

尚、引用する内容は、湯浅さんのHPに掲載された、各参加者の意見を主に用います。

論文ぽくなるかもしれませんが、論文では無いため、細かな引用脚注は省きます。わたしは、参加者の意見を継ぎ接ぎしながら繋いぐように、文章にしていきます。「」が付いていないところにも、参加者の意見が散りばめられています。ブログという形で、分かりやすく伝えたいです。

でも、私の眼鏡が入ってしまうことはご容赦ください。。

 

✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀

【1 境界の所以】

ものの概念は、言葉によって生まれます。今まで無意識に捉えていたものを言語化すると、世界には「〇〇であるもの」と「〇〇でないもの」に分かれます。ある基準によって区切られ、間には境界が出来る。

なぜ、2者に分かつことが出来るのかというと、元々2者は、異なるものであったからです。

ではさらになぜ、2者に分ける必要があったかというと、自分たちが何者かを知りたいからです。分けられた内の、どちらのグループに属しているのか。これを知ることで、自分を知る。そこには、ワンネス(宇宙意識と繋がること。生まれる前の状態であり、生きていくと忘れていく感覚。ヨガなどで取り戻すとされる。スピリチュアル用語)を思い出す恐れから来るのかもしれません。

ちなみに境界は仏教用語にもあり、「果報として各自が受ける境遇。六境。認知作用·思考作用を起す「眼·耳·鼻·舌·身·意」の六根の対象。六塵とも呼ぶ。」という意味だそうです。

 

 

【2 境界の分類】

参加者が挙げた、境界に関するいくつかの例を分類すると、以下の3タイプに分けられると思います。

 

 ①物理的境界

 ②便宜的境界

 ③心理的境界

 

↑それぞれを説明していきます。↓

 

①物理的境界

=化学的・物理的な境界を指す。視覚的に捉えることができる。

 

化学の世界では、境界を"界面"と言い表すそうです。このことについて考えた参加者は、以下のような例を挙げました。

「例えば水面は水と空気の界面と呼んだりしますが、ダンスは肌という空間と体内の界面が動いているように受け取ることが多いです。同じようにウイルスが取り付く細胞壁も界面で、人間が外に出なくなって動物が街にでてきた光景も両勢力の界面が動いたように見えます。いまいろんな界面が躍動しているように見えます。」

 

水に着眼点を持った参加者は他にもおり、以下のような例を挙げられました。

スーパー銭湯の炭酸風呂に入ると

小さい泡のつぶつぶがびっしり皮膚にならぶ。

炭酸風呂と私の境界に、泡つぶがならぶ。

そう言えば、炭酸水にレモンをギュッと絞って入れたらジュワワって音がなる。レモン汁と炭酸水の境界に泡がうまれて、はじけてジュワワと鳴る。

「ジュワワ」は境界線の音なのか?

水に絵の具を垂らすと

そこには水と絵の具の境界線がうまれる。

金魚のひれみたいに、ひらひらゆらゆら形をかえながら、ゆっくりと下降する。

最初はダイナミックにドラマチックにみえた境界線がだんだんぼんやりとしてくる。

絵筆を水の中でバシャバシャと横に振ると境界線は散らばって

水は水じゃなくなって

絵の具はもとの絵の具じゃなくなる。

あの清廉な水にひらひらゆらめいていた境界線はもどってこない。」

 

建築においては、以下のように例があがりました。

「以前、私も「境目」をテーマに古民家で作品創作をしました。その時に、建築家が、日本家屋は、障子やふすまなどを取り外し可能で、使用用途によって部屋の境目を変えられる。その機能は西洋建築にはないこと、と言っていたのが印象的でした。」

 

このように、誰が見ても納得の境界が、例として挙げられます。言い換えると、客観性があるとも言えるのではないでしょうか。​ 

 

「私たちの細胞の中にいるミトコンドリアは別の生き物でありながらも私たちはそれなしでは生きていけず、「どこまでが自分でどこからが自分でないか」ということすら、定義するのが難しいのではないかと思います。ただ、実際に境い目がないものに対して「このような境い目があることとする」という定義付けをしなければ、私たちのコミュニケーションやさまざまなやりとりが成り立たない社会に生きているというのも事実ではないかと思います。私たちが「口」と呼ぶものは、実際には粘膜が外部に出ている部位を主に指しているだけで、実際に境い目をつけて口だけを差し出すことはできません。けれど「口」という概念がなければ、私たちの生活のさまざまなところに支障がでるのではと思います。」

という意見もありましたが、こちらは次に挙げた便宜的境界にも通じるものがあります。

 

 

②便宜的[外的]境界

=世界の秩序を保つための境界を指す。

例えば、人種、国境、生死、性差。。

これらは、社会的"常識"として、広く認知されているものである。これも、客観的と言えば客観的。

 

しかし、ときにこの種の境界は、強く反発を受けます。それは、その境界が、そのグループへのラベリングとして機能してしまうからです。生まれた国、人種、性別は、自分で選んだ訳ではない。それなのに、世間から不条理にラベリングされる。

便利な境界だが、使い方を誤ると、不要な争いへと繋がってしまいます。

参加者からは、以下のような意見が出ました。

「国境(難民、戦争)制度(民族差別やカーストなど)元々はっきりしていた国に比べると今の日本はまだ自分での選択肢は多いのだろうとは思うけれど、今からどうなるか分からないのかなと思いました。」

「性差の違いは受け入れるべきで、例えば、女性にしかない月経は、必要不可欠なものであり、それを疎ましく思ってはならないのだと考える。

性差における生来の能力の違いは、尊敬し合うべき。

だか、一方で、政治や医療の世界において、男女差が関係ない分野において、女性初の〇〇などと聞くと、いつも違和感を感じざるを得ない。

あるコンテ教師に、振り写しの際、女性らしくといわれ、「ん?」とも思う。

バレエ作品のように明文化されたキャラクターにおいて、「演じる」ことをしさえすれば良いかもしれないが。」

「境界とは、永遠の論点であり、一つに決めることができないもの、だと思います。例えば、国境も便宜上引かれたものであり、文化であったり、歴史であったり、違う観点から見ると違う境界が出てくる。そして、それを巡って戦争になる。

人は何でも白黒つけたがるのですが、人それぞれ白黒のボーダーラインが異なるので、絶対その意見が一致することは無いと思います。」

これらにあるように、境界における物議は絶たないだろうと思われます。

 

一方で、

「人種、国境、生死に関して言えば、先進国で、島国である日本という国で今まで長く生きている自分にはイメージしにくいです。

なので長く海外に住んでいた人のお話を聞いてなるほど、と思うだけです。

実際現地に行ったり見たりして、肌で感じ、自分とは違うという立場だと感じた時が"境い目"になるのかなと思います。」

という意見もありました。

この問に応じたような意見もあり、以下のように答えています。

「人種についてもたくさん考えます。日本人は特異だと思うからです。これは世界各国から人が集まるダンスキャンプに参加した時に実感しました。文化·言語の違いは私たちの身体にも顕著に現れていたと思います。西洋の人のあのオープンで少し不器用そうな身体は自分たちとの差を実感しました。それが何から生まれるのか、文化·言語·気候·土地など様々な要素からなっているのだろうと考えました。その違いは私にとって興味深かったです。」

 

このように、便宜的境界を前提にして交流しても、境界の向こう側と実際に顔を合わせ、触れ合うと、向こう側へ興味が持てるようになることもあります。

境界を超えるということを、自分の身体をもって体験すると、価値観が変わるのかもしれません。

元々境界なんて無かったのだ、と思えることも起こり得ますね。

 

 

心理的[内的]境界

=上記①②に当てはまらないもの。身近な人間関係において発生することが多い。

 

現代に生きる若者に取り巻く身近な境界として、以下の例があります。

「境目と聞いて、一番に浮かぶのは「自己と他者」の境目です。一昔前に比べ、SNSの発達もあって、他者との距離が近くなっているような気がします。このように外で人と会えなくなった今でも、オンラインで人と繋がれて、便利だなと感じます。一方で少し恐ろしさも感じます、、、私は中学生からLINE、Twitterを使用し、友人や、ともすると会ったこともない人たちと気軽にコミュニケーションを取っていました。ですから朝ドラでの、文通で愛を育んだという内容には驚きました。その頃と比べると、圧倒的に自己と他者の境目の壁は薄くなっているのだろうなと思います。久々に会う人とは、「久しぶり~」と言った次の瞬間には「でもあんまり久しぶり感ないね!」「インスタみてるからかな」という会話を必ずします。こんな時私は、少しの違和感を覚えつつもそれを自分でかき消しているような気がします。小さい頃からSNSを使用している影響か、私はふとした時に自己と他者の境界がわからなくなることがあります。その感覚は、インターネットで簡単に情報を得られるようになった、情報の過共有化によっても引き起こされていると思います。

 自己と他者の境目を違う視点で考えると、長い時間一緒にいると、その人らしさ、みたいなものが現れてくるのが面白いと思います。実体験としては、同じ大学に通い、同じ作品を踊り、同じ授業を受け続けて4年目になる友人たちがいるのですが、一緒に過ごしているとその人の考えていることがだいたいわかるようになりました。(もちろん時にはちゃんと口に出して意見し合わないと行けないこともあるのですが。)この状況は境目が薄くなってきていると言っていいと思います。」

 

他者との間に境界はあるのか、ないのか。

SNSは、人間関係を築く上で、欠くことのできないツールとなってきています。若者にとっては、必須アイテムではなかろうかと思います。

SNSというツールは、他者との境界の形を変容させているのかもしれません。

 

一方で、"若者"より年齢を重ねた参加者は、以下のように述べています。

「人との距離は近づきすぎてもいけないというが、私自身は人には近づいて、踏み入って欲しくない時が多々ある。

壁があえて必要な時、どのように表せばいいのか、悩む。

だんだんと老いてゆき、人から取り残され、社会から置いていかれる事に対し、社会との境を作る事で自分を守っているように感じている。」

生きる手段としてあえて境界を作るということは、便宜的境界とも通じるかもしれません。

 

※②便宜的境界と③心理的境界は、正直重なる部分が多いです。あえて線を引くとしたら、境界の発生源が[外的]か[内的]かという点かなと思い、分けさせていただきました。

 

【3 境界との上手な付き合い方】

前章では、境界に関する様々な例を見てきました。

では、生きながらに向き合わなければならない境界と、どのように付き合っていくのがよいのか。

前章でもチラチラとキーとなる糸口が出ていましたが、本章でも改めてまとめてみます。

特に、便宜的境界と心理的境界においてです。主観的なものの見方や価値観が出てくるため、これらの境界を論点にすると、モヤモヤっと話がまとまらないことが多いでしょう。

しかし、そこで道標となるのが、物理的境界です。便宜的・心理的境界でも活きる考え方を、物理的境界から倣うことが出来ると思います。

 

まずは、境界との付き合い方を見ていきましょう。こんな意見がありました。

 

「グループの優劣に目をつけてしまったとき、「境い目」にすごく意味が生まれるのだと思います。

また、「境い目」という言葉に何かがリセットされるようなニュアンスを感じますが、これも私たちの「境い目」を濃くしている要因の一つだと思います。

「境い目」のこちらと向こうは本来同じものをわけただけのはずが、「境い目」が元から概念としてあるとまったく別の何か同士が存在しているような感じがします。人と人をわけるだけではなく、時間軸の「境い目」に関しても同じことが言えます。私たちは「境い目」によってすべてがリセットされているわけではないひと続きの流れや広がりの中にいることを自覚するべきだと思います。」

 

これは、日本建築と通じるところがあります。

取り外し可能な襖や障子で、空間の仕切りを変えても、土台は同じで、ひと続きに繋がっています。

 

「薄くした方がいい境目と、厚くした方がいい境目と、そのままにしておきたい境目」

という表現をしている参加者もいました。

境界は、厚さや密度、強度においてバリエーションが出せるのだと分かります。そしてそのことは建築にも通じます。

 

水に絵の具を垂らす。

という物理的境界の例に近いのが、以下の意見です。

「境い目が曖昧になるとき、境い目が溶けてなくなるときが快感や悦びと繋がるような感覚があります。臨死体験がよく快感と結びつけられるのは、自分がどこから始まってどこで終わるのかわからない感覚に陥るからという考察とも繋がるように思っています。」

 

このように、はじめに境界があったものが、段階を経て、境界が無くなったように感じられる場合もありますね。

境界は有るものだとしても、それをどのように認識するかで、見える世界が変わってくるのだと思います。

 

逆に、こんな見方もありました。

「同時に、物事を細かくみる、いろいろなものに境い目を作ってその関係性をみることもすごく大切なことだと思います。初めて眼鏡をかけたときの感動---いままで木というのは緑のモヤモヤしたものだと思っていたけれど、枝があって葉っぱがあって、その表面には葉脈があって、木漏れ日がキラキラしているという風景に出会えた感動---とリンクする感覚です。世界まるごとをもっと敏感に、感受性豊かに知覚するためには、境い目を作って物事を考察することも大切なのかなと考えています。」

 

境界を溶かすこと(有から無へ)と、境界を捉えること(無から有へ)。

ベクトルは違えど、境界によって感情が動かされるのは確かだと思います。

これらの方法は、境界を悪者扱いせず、共存しながら上手に付き合っていく方法で、忘れないようにしたい観点です。

 

最後に、湯浅さんの言葉を載せます。

オンラインの対話でも、以下のことを強調して仰っていたように思います。

自分の境界内だけではなくて、向こう側の存在も知ること、自分が当てはまること以外のことにも目を向けることは必要だなと思います。

実際に体験する、経験することができるのが一番ですが、それができなくても想像してみる

そうでなければ、そうでなくとも、自分(自国)第1主義になりがちで、孤立したり過度のナショナリズムになってしまう。。

こんなコロナ時代は特に。」

 

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以上が、私なりのまとめです。

参加者さんや湯浅さんの貴重なご意見を、ふんだんに使わせていただきました。

参加者、湯浅さん、読んでくださった方々、ありがとうございました!

 

境界とhome1 ~はじめに~

 

GWは、オンラインレッスンをいくつか受けました。

有料のものは、鈴木竜さん主催の以下のレッスンを受講。

 

GAGA by 大手可奈 ×2回

・湯浅永麻セッション 「reconnect」 ×2回

 

ど田舎にいながらでも都心に住んでいる方々と同じレッスンを受けられる。

そんな時代になったことに、いたく感動しました。

 

今回は、湯浅永麻さんによるレッスンを紹介します。

一回のレッスン時間は1h15mでしたが、内訳は以下の通り。

 ・前半45m→ムーブメント

 ・後半30m→対話の時間

後半の対話の時間が、他レッスンとは異なる点であり、私が強く惹かれてレッスンを申し込んだ理由でもあります。著名なダンサーと腰を据えて話し合える機会って、一般的には、作品を作る目的があるときや、何日間か連日でレッスンがあるときの一幕でしか叶わないものだと思っていました。

無目的に話すって、なんとなく、参加しやすいです。

今回の対話の準備として、レッスン申込者には事前に宿題が課されました。それは、各回に設定されたテーマに対して、自分がどう考えるか、専用入力フォームに文字を入力して送信することです。

そして、そのテーマというのが、

 

・第1回目(2020/5/3)

 Q1) 「境界」について

 Q2) 湯浅永麻の作品への質問

・第2回目(2020/5/5)

 Q1) 「home」について。ステイホームの今、それぞれの「home」とは?

・第3回目(2020/5/6)

 Q1) 「お好きに」あなたが今思っていること、感じていること、聞きたいこと

 

私は上記レッスン全3回のうち、第1・2回目を受講しました。

次回のブログから、このとき話し合われた「境界」と「home」について、意見をまとめたり、掘り下げていこうと思います。(ブログ掲載許可頂いてあります)

「境界」と「home」は、それぞれ別回で話し合われたのですが、似通い、交差する点がいくつかあったため、行き来しながらまとめていきます。

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(↑GW最終日、日本海の境界線)

 

今回は、湯浅さんについてご紹介します✰

湯浅さん、もともとはクラシック・バレエを専門的に極めた方なのです。

NDT以降のご活躍については以下の通りです。

「ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)に11年間所属した後、2015年末に独立し、ヨーロッパを拠点に国際的に活躍するダンサー、振付家の湯浅永麻。強靭さを秘めたしなやかな動き、脆さと狂気、幼女と聖女が同居する独特な存在感で注目され、マッツ・エック、サシャ・ヴァルツ、シディ・ラルビ・シェルカウィ等の名だたる振付家の作品に出演。日本では同じく元NDTダンサーの渡辺レイ、小㞍健太とともにOptoのメンバーとして活動。また、近年では彩の国さいたま芸術劇場の若手ダンサー育成プログラム「さいたまダンス・ラボラトリ」、ファッションデザイナー廣川玉枝などジャンルの違うアーティストとのコラボレーションで作品を創作し、振付家としても活動の場を広げている。」

(「アーティスト・インタビュー現代ダンスの国際的なダンスが培った湯浅永麻の新感覚」

https://performingarts.jp/J/art_interview/2001/1.htmlより引用)

 

こんなすごい方だったとは。

オンラインレッスンでお見受けした時は、とても気さくな方だという印象でした。

レッスン開始20分前は動作確認として、映像と音のやり取りをします。その時に、湯浅さんの映像には、「Welcome online session」と手書きで書かれたボード(スケッチブック?)が、赤いバラ🌹とともに映し出されていました。つまりは、湯浅さんの自宅(外国オランダ)で前もって準備して、カメラの前に置いてくれたものたちです。加えて、音楽は外国語のジャズのような音楽が流れていました。

私このような演出に弱く、「はじめまして」でしたが、すごくリラックス出来ました。

おしゃれの中に愛を感じます。

 

レッスン内容も、ダンス経験者でなくても参加できるものでした。

第1回目のレッスンで、動き始める前に、

「ジャッジしないこと」

と仰っていました。このスタートの言葉がかなり印象的。

そんな言葉で始まったムーブメントは、自分のネガティブな感情や、自分の部屋にある物たちをも肯定していく内容でした。

ときに涙が出ました。

 

それから対話の時間に入っていくのです。

下のリンクは、湯浅さんのHPです。

こちらのサイトでも、湯浅さんが今回の対話の内容をまとめています。

こちらにある言葉も咀嚼しながら、私も考えていこうと思います。

www.emayuasa.com

 

 

 

 

 

🔰有料オンラインでGAGA体験

ZOOMとPayPal(PayPayだと勘違いしてました)をダウンロードして、初めてのオンラインレッスンに挑みました!

受けたレッスンは、

GAGA by 大手可奈(5月2日午前11時〜45分間500円)

です。

ワンコインてすごいお手軽ですよね。

 

今はまだ受講前です。

実は私、GAGAというものの実態をあまり存じ上げてなく。

あえて、その無知のまま挑みます。

レディーじゃないGAGAいるんだ!という程度です。

部屋をきれいにして、さぁ初ReadyGAGA!

  ↓

 🕚45分

  ↓

 🕛受講後

とにかく暑い熱い!身体が、特に肩・背中が! 

いつの間にこんなに動いてたんだ?!ってくらい熱い。

でも動いた面積はほんの2〜3畳ほど。45分間。

 

講師の大手さんは、レッスン初めに、こんなことを仰っいました。

「レッスン中、こちらから指示を投げかけていきます。しかし、前に出された指示を全部行いながら、実行していってください」

つまり、タスクがどんどん重なっていくのですよ。

始めのタスクは、『肩甲骨の動き』。そして、どんどん身体の関節が分解されていくようなワークに進んでいきました。

「皮膚と空気がどのように触れているのか、感じてみて」等と、大手さんから投げかけられます。

そして、「鏡は見ないこと」も、レッスン前に指示を受けました。

実際にレッスンを受けてみると、確かに鏡で身体の状態を確かめる必要はありませんでした。

このように身体の声を聴く時間って、集中する余り、顔が無表情になります。

 

しかし、

大手さんは「笑って」と声をかけられました。

 

「楽しむこと」

「遊んでいるという感覚を忘れないで」

これがこのレッスン中で、印象的な言葉でした。

遊びを通して学習するということは、保育園や幼稚園で徹底されていることです。子どもに時代には、遊びと学びがセットです。

 

生まれて初めて身体と外界とが関わっている。今回のレッスンは、そんな過去を思い出させる時間だったと言ってもいいかもしれません。

 

ここでやっと、GAGAとはなんぞ?ということに簡単に触れたいと思います。

以下が端的にまとめられています。

イスラエルを拠点にするコンテンポラリーダンスカンパニー・バットシェバ舞踊団。世界各地で年間250公演に及ぶパフォーマンスを上演している。オハッド・ナハリンは1990年に同カンパニーの芸術監督に就任したダンサー・振付家。「GAGA」と呼ばれる動きのテクニックを考案し、公演やワークショップ、音楽家とのコラボレーションなど様々な活動を行なっている。」

(CINRA.NET『GAGA考案のオハッド・ナハリン率いるバットシェバ舞踊団 4都市で来日公演』(2017)https://www.cinra.net/news/20170722-batshevanaharin/ampより引用)

 

そう!GAGA自体は動きのテクニックを指します。人では無い!

 

このバットシェバ舞踊団については、

「振り付けは意表を突くうえ、性格の悪さが伝わってくる。(中略)いつのまにか「ダンス」を頭でっかちに考えていたことを痛感させられたカンパニーである。」

乗越たかおコンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』より引用)

と、表現されています。

バットシェバ舞踊団の作品は、一部YouTubeで観ることができます。そこで観る限り、作品全体の緩急は、振付家の遊び心のようにも感じます。観客の頑なな脳みそをほぐすことで、柔軟な思考を取り戻させてくれてるような気がします。

 

まとめです。

今回のレッスンでは、

身体へのアプローチとして、以下の3つが考えられます。要素として多かった順から。

・解剖学的・演劇的・バレエ的

これらのアプローチによって身体の解放を目指す。自分の身体の可能性を探っていく、実験をしている気分になりましました

それは、真摯に身体と向き会える時間。動きのメソッドとして、単純に面白かったです。

また、ワンコインで、バットシェバ舞踊団の動きの秘密が少し体験でき、嬉しかったです。

 

✿オンラインレッスンについて✿

○個人的メリット

・講師と受講者が、別々のレッスン会場である(国も超えられる)

・記録として残せる(動画として録画する。もしくは、レッスンが終わったらすぐにメモできる環境である)

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・講師とテレビ電話してるような気持ちになり、なんとなく友達感覚になる。(他の受講者も。顔が正面で見られるからかも?)

・家という日常空間で踊っているから、レッスンが終わっても、日常空間で再現しやすい(レッスン場で行った特別なレッスン、とは違うものとして記憶される。今までレッスン場で感じてたような神聖な気持ちを、お家でも得ることができるのだという発見)

・近くにトイレがあるという安心感

 

○デメリット

・やはり広さ問題(狭くてもレッスンできるかどうかは、講師の力量に任される)

・レッスン後に講師への質問が出来ない(対面のときは、誰かが質問すると、みんなで答えを聞いたりしてた。レッスン中より、ゆるっとしていて、好きな時間でした)

・講師からのフィードバック量が減ってしまう(対面だと講師が受講者の間を通るなどして、各受講者を観察できる。それによって、具体的なアドバイスがもらえる)

 

といったところです。

明日もオンラインレッスン受けますぜ!

有料オンラインレッスン × 消費者

今回はきれいごと抜きにしたお話です。

ダンサーと消費者の両者の立場を考えた上で、主張させていただきます。

 

私は無料で見られるYouTubeで、プロのダンサーのレッスンをお家で受けられてHAPPYな日々です。

無料だからある程度伝える内容は少なめなのでしょうが、それでも、昔ローザンヌのダンス動画から知恵や技を盗もう盗もうとしてたときに比べたら、コンテンツが増えてすごく充実してます。

舞台動画もフルで公開するようにもなりましたね。

お金払わなくても、気軽にダンス体験出来る〜♪

これは消費者側の考え。

 

しかし、それではダンスによる収益が無くなってしまう、というのがダンサーの考え。

だから、オンラインによる有料レッスンを開講しますよね。

自然の思考であるし、ダンサーとして何かやらねばほんとに価値が無くなってしまう危機感。

すごく怖いですよね。その中で、明るく活動をなさるダンサーのハートの強さたるや、尊敬に値します。

 

しかし、消費者は、お金を払う前に、無料コンテンツとの比較を行います。

つまり、お金を払う価値あるの??という物差しで値踏みしちゃうんですよ。

とても素晴らしいダンサー講師であるのに。

受けない理由が思い当たらない、というのがダンサーの意見です。

 

では何が消費者のリミッターになっているのか。

ひとつ考えられるのは、消費者がレッスンやワークショップにお金を払う理由って、講師だけにあるんじゃ無いということです。

「消費者は、講師から知恵をもらうためだけにお金を払うのだ」とダンサー講師側は思いがちですが、他にも色んな要素にお金を払ってます。

 

その一つに、環境があります。

例えば、大きな鏡があり、どこまでも障害物のない広いフローリングがあり、音響機材も備わっている。

普通の家には、そんなレッスン場のような設備無いですよね。

私はお家バーレッスン、特にバットマンやロンデジャンをすると、必ず何かの障害物に当たります。台所や廊下でやるしか無いですから。

今までの対面レッスンであれば、指定の場所に行けば、身一つでその場に身を委ねることが出来る。身体表現に安心して集中出来る環境が整っている訳です。

その整った環境にも、消費者はお金を払っているのですよ。

 

あと、対面レッスンで大きいのが、レッスン中だけでなく、レッスン前後における参加者との交流です。面識が出来るわけです。

私も割と無口ですが、心の中で、

(コンクールで1位を取る方が、一緒にレッスンを受けている!!)

(京都造形芸術大学の子がいる!どんな授業受けてるんだろう)

(あの人の動き、すごくクセあるな、、)

等と、他者から刺激をもらっています。

それで、ふとしたタイミングで声をかけ、繋がりができていきますね。

他にも、資料やパンフレット、グッズといった物も対面におけるメリットの一つです。

 

いまダンサーが行おうとしているのはオンラインレッスンという、対面レッスンに比べ、めちゃくちゃ新しい文化です。

消費者の価値観や想像力は、それほど追いついてませんよ。

だからこそ、もっと消費者目線で情報を開示して売り込まないと、収益は上がらないと思います。

 

オンラインレッスンではやれることが少ない。その分受講料を安くしていると思うので、ダンサーが身を切っているのは承知です。ですからもっと、ダンサー側にとっても消費者側にとっても有益になるよう、バランスを取っていかなくてはと思います。

 

私もコロナ以前はこんな風に思っていませんでした。

講師が素晴らしいからお金を払うのだと。

しかし、実際こうしてお家でレッスンを受けるとなると、何か違和感がある。

対面なら喜んでレッスンを受けたいと思うダンサーでも、お家だと判断が鈍ってしまう。

しかしそこに収益のヒントがあると思いませんか?

 

消費者にとっては、金額の値は関係なく、オンラインになった途端、0→1になるだけでハードルが高くなってしまいます。

レッスンを受けたい消費者が現在失業してるなら尚更です。涙

 

消費者にお金を払わせるなら、それ相応の説明が必要です。

説明によって、消費者がオンラインレッスンを具体的にイメージできないと、財布の紐は緩みませんんんん。

以下に、現在有料オンラインレッスンに取り組まれている方に向けて、どんな説明が消費者としてほしいか、まとめます。

 

【絶対】

・どのくらいのスペースが必要なのか。

・地面はどのタイプが良いのか

 (フローリング、畳、外、どこでも良い等)

 

【おまけ】

スマホで観ても大丈夫なのか、パソコンで観たほうがいいのか

 →パソコン環境の無い方への配慮があると親切ですね

・レッスンの前例があるなら、オンラインレッスンをスクショした画像

 →ビジュアルイメージは、どんな言葉よりも多くの情報を与えてくれます

・上記に関連して、レッスンの内容

 →技術的なことではなく、レッスン全体の流れ。「オンラインレッスンってこんな感じだよ〜」という具合に

・ストレッチ以外の付加価値

 →ストレッチだけなら無料コンテンツでも事足りるため、有料だとストレッチ以外に何が得られるのか知りたい消費者心理

・受講者の受講後の感想

 →いわゆる口コミ作戦です。体験談ほど消費者に伝わる言葉は無いです

 

これらの情報を、クリッククリッククリックを繰り返し、やっと見れるページに貼るのではなく、初めに宣伝を出すSNS上に貼るとより良いと思います。

そこで興味をひかなければ、クリッククリッククリックもしませんからの。

 

 

そんなケチくさいことを言う私ですが、私でも、これらの情報無しに受けてみたいと思ったダンサー講師がいます。

コンドルズ近藤良平です。

理由は簡単。

前にワークショップを受けたことがあるからです笑

近藤さんなら、こちら側がどんな環境でレッスンを受けていても面白がってくれそうだと確信があります笑

どんな環境でも最高のパフォーマンスをやらせてくれるに違いない、とイメージできるから安心感があります。

 

このように、対面でのレッスンを受けたことがある消費者は、オンラインに移行しても付いて来やすいです。

しかし新規開拓をしていくなら、具体性を持った説明がほしいですね。

 

かく言う私も、とやかく言ってるばかりでなく、実際のオンラインレッスンを受けてみようと思います。

正直オンラインレッスンは不透明で怖いですが、飛び込んでみるのです!

 

受講したらまたまとめたいと思います。

ちょっと動きやすくなる話

ポジティブに捉えてほしいのですが、

創作ダンスを、高尚な遠い存在だと思わないでほしいなと思うのです。

振り付けが天から降ってくることもありますが、元を辿れば、何か原型となるモデルがいるはずです。

 

ということで、創作ダンスのスタートは、

真似からです。

「なにかをつくろう!」という気持ちは素晴らしいので、その気持ちは忘れないで。

一旦そばに置いておきましょ。

 

正直、私の踊りは、色んなものの継ぎ接ぎ(つぎはぎ)でできています。

誰かが踊って、素敵だなと思った一瞬の、身体の形や目線だったり。

たまたま観た美術展の、血液のようなラインだったり。

水族館で観た、無重力に遊泳するマンボウだったり。

ぜっったい、誰か・何かからのオマージュです。

私から真にオリジナルなものは発想できてません。

でも、色んなものの中から、ソレをキャッチするセンス。ソレらを継ぎ合わせる構成力は負けません。

 

ということは、あなたにも同じことが言えるのですよ。

個性の光る場所が、そういうところにあるとご理解いただきたい◎

 

実践的な話に移ります。

では、何を真似するのか。

作品を完成させることは抜きにして、面白い動きを生み出す、ということに今は主眼を置きますね。

例えば、シャドーボクシングをひとりでやってみるとします。

 

 ∧_∧
( ・ω・)=つ≡つ
(っ ≡つ=つ
`/  ) ババババ
(ノ ̄∪

 

これは、「日常の動き(ダンシングしていない動き)」から真似てみようという試みです。(これが日常という人はネネちゃんぐらいだと思いますが)

見えない敵に向かって、あなたは何者かと戦っています!!

そのまま、以下のような試みをしてみるとします。

【試み①】

ボクシングしたまま、あなたの好きなタイミングで、ターンとバットマンを2個ずつ入れてみましょう。組み合わせ自由です。

【試み②】

立ったまま地面真下に向かってボクシングしてみましょう。

【試み③】

動きすぎて披露が溜まってきたら、腕の動きは止めて体側に下ろし、頭と上半身だけしっかりボクシング続けましょう。

 

ほらこんな風に、何かの動きを真似しても、アレンジ次第でこんなにシュールな画が出来上がりましたよ。

 

もう一つ例をあげます。

もう少し真面目な話。

例えばこれ。f:id:danceliving:20200430200505j:image

ご存知。森山未來さんですね!

(長谷川寧『死刑執行中脱獄進行中』(2015)公式パンフレットより引用)

ムーブメントの一コマを切り取ったような写真が並んでいます。

結構自分でもできそうなポーズですよね。

 

さて、あなたならこの写真たちを、どのように自分の動きに落とし込みますか?

さっきのボクシングに、入れ込んでみては?

(特に右上のポーズなんて入れやすい!)

 

もっと深く見ていくなら、森山未來が実際どのように動いて、何を考えてそのようなポーズをしているのか、動きながら推測してみるのが良いです。

彼はイスラエルでダンスを学びましたが、それ以外にも様々なジャンルのダンスを経験しています。

そんな彼が紡ぎ出す、派手さの無い動き。

でも惹きつける何か。

目線?それとも指先?

それらひとつひとつを観察して、自分で再現してみる。

彼は世界がどう見えているのか、それを真似ることで、彼の息遣いを取り込みながら、体感してみるのです。

 

なんだか私は踊りたくなってきました。

このような具合に、なんでも噛み砕いて自分のものにしてしまえばいい。

喜んで真似していきましょう。

 

 

 

コロナ時代 × ダンサー × アダム・グラント『GIVE&TAKE』


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このようなところで踊ると、心が浄化されます。海の見える小高い細道ですぜ。

誰に見られるわけでもなく、ただただ感じるままに動く。それはそれは、魂が喜ぶ尊い時間です。

しかし、

いまいまの問題として、表現の場を作れないことがありますね。

ダンサーや表現者にとっては死活問題です。

この打開として、ストレッチやダンスの動画がYouTubeに増えました。

オンラインによる発信です。

わたしもプロの方に教われて、勉強になってます!しかもタダで!(ネレアさん等)

おかげさまで休みの日はがっつりバーレッスンする習慣が付きました。

 

でも、やっぱり生身の人間が、同じ地上に立ち、場を共有していることが大事だったのだなと実感する日々です。

きっと生でそのダンサーに会って教わっていたら、何十倍も刺激を受けてたてしょう。

 

人間が画面の中の大きさになると、小人さんになってしまいますよね。

仕方ないんですけどね涙

しかも消費者の目線でいうと、動画には手軽さを求める心があるじゃないですか。

通信教育不適合者の私には、腰が重い。。

(通信教育を始めても、手付かずのテキストが貯まってくタイプです汗)

 

人と人とが会えないいま、ダンサーとして何ができるか。を考えるのも有りですが、

ダンサーとして今やっておいた方がいいこと。を考えるのも有りかなと。

 

それで、ひとつ挙げたいのが、

横のつながりを作る・強化することです。

ひとりで頑張らない。

なんたって、あなたのやりたいことは、きっとひとりではやり切れないものだからー!

この、組織で闘うということの強みを教えてくれたのが、

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『GIVE&TAKE 「与える人」こそ成功する時代』アダム・グラント

Amazon CAPTCHA

(私広告収入などはやってません笑)

ギブアンドテイク。

私はずっとギブアンドテイクで生きてきたと思います笑

でもこの本を読んでだいぶ頭が柔らかくなりました。

こうやって、私だけの経験をブログを通してシェアしていくことも、この本をキッカケにして始まりました。(本はまだ読了してませんが)

ここでは、今までにこの本から得られたことを、表現に擦り合わせて話しますね。

 

あなたにはきっと才能があります。

その才能を活かして能力を発揮するため、サポートしてくれる特定のチーム・パートナーがいるともっと心強い。

能力があるからこそ、どんなところでも一人で100%のパフォーマンスをする、ポテンシャルやコミュニケーションスキルも高いと思います。

しかし、あなたのそのちょっと大胆で挑戦的なアイディア、組織であるほうが実現出来そうではないですか?

 

そうならば、信用できるチームを作ることも手ですよね。しかしすぐに良いグループなんて出来っこない。

まず何をしたらよいか。

それは、見返りを求めずに、相手を助けることです。

見返りが無かったらただの損ではないかー!マザーテレサかよ!と思うかつての私。

でも、そのようにして相手のために時間を費やすと、数年後、もしくは忘れた頃になって、あなたを助けてくれるのですよ。

 

この本に挙げられた例の一つとして、建築家フランク・ロイド・ライトがいます。

実は彼の建築めちゃくちゃ好きです。

大学院入試の面接で熱く語りました。

何が良いかって、構造と形態、全体と部分、人と自然環境といった、ある種相反するような要素がバランス良く共存しているのです。下図はほんの一例。


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↑C.レイ・スティーヴンス邸
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↑ケニス・ローラン邸


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↑ソロモン・R.グッゲンハイム美術館
(『巨匠フランク・ロイド・ライト』デヴィッド・ラーキン ブルース・ブルックス・ファイファー編より引用)

彼の弟子であるケンドリック・ケロッグが造った「石の教会」(軽井沢にある内村鑑三記念館)も、ライトの息吹が感じられるかなと思い観に行きました。

 

こんなに大好きなライトが、『GIVE&TAKE』ではケチョンケチョンに悪い例として語られています笑

彼は職人や弟子たちに助けられて、偉大な作品ができていた。しかし職人たちからは距離を置き、弟子たちを助けてやることもなかったらしい。ライトの息子からも「お粗末だ」と言われる始末。

結果として辞めていく弟子が多かったそうだ。

 

対象的なのが、アメリカ番組『ザ・シンプソンズ』の仕掛け人である、ジョージ・マイヤー。

マイヤーはグループに貢献した。人が嫌がる仕事も引き受けることで、仲間の能力が育つ時間と環境を作りました。そのおかけで、一人ひとりが努力していくようになりました。

もしマイヤーがギブアンドテイクタイプの人間だと、同じことを仲間に与えていても効果はありません。なんせ、見返りを求める心があるのですから、相手はそれに見合う正しいものを出さなければと、意識してしまうからです。良いものが出るどころか、緊張や萎縮をしてしまう訳です。

結果として、多くの天才を生み出したそうです。仲間の一人は、マイヤーが社を去っても「マイヤーだったらどうするだろう」と考えるほど、マイヤーの信頼が厚かった。

マイヤーのような人がグループに一人いると、そのグループの能力水準が上がるそうですよ。

 

 

以上、本の内容(Part1〜3)から引用させていただきました。

 

表現者として発信することも必要ですが、マイヤーに習い、所属しているチームがあるなら、そのチームメンバーのパワーを引き出すために動いてみるのも良いなと思いました。

わたしもこの身体と脳を、動けるだけ動かしていきたいと思います。