身体表現のじかん

ダンスは生と共に。

音 ~音の感じ方~

一番初めにすべきだったのですが、私が本文で用いる「音」についての定義をしたいと思います。

まずは、鳴りものの本家である音楽の視点に立って見てみましょう。音楽の領域のおいては、音と音楽、それぞれを3要素という形で、以下のように定義づけています。

 

音の三要素(突発的な一瞬の音)

・音の大きさ

・音程

・音色

 

音楽の三要素

・メロディ(旋律)

・ハーモニー(和声)

・リズム(律動)

 

律動って聞きなじみのない言葉ですよね。。

ちなみに、「律」とは「おきて・さだめ」を意味します。

音楽言語のなかで、「律」はよく出てきます。

 

脱線しました。

上記の定義を借用すると、本文で用いる「音」は、上記における音と音楽、両方を含めたものとして使用します。

言葉をさらに細分化しますね。言葉の親しみやすさや分かりやすさを主眼に、個人的使いやすさも入れて、以下のように使い分けます。

 

・とにかく鳴るものすべて → 「音」

・上記の音に当るもの   →  「単音」

・上記の音楽に当るもの  → 「曲・音楽」

 

 

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ものすごく簡単ですが、定義が出来たところで本題に入ります!

 

今回は、音の感じ方を、ひとつご提案をします。

それは、ある人から言われた言葉なのですが、これは、それまでずっとダンスをしていた私にとって、衝撃の感じ方でありました。しかし今も大事にしているものです。

 

練習場に音楽が流れている中で、自分が踊っている状況を想像してみてください。

その時に言われた言葉がこちら↓↓(そのまんまの言葉ではありませんが)

 

 

『かかっている音楽は、

 外で鳴っているんじゃない。

 身体の中で鳴っている。

 あなたは今、胃の深いところで

 小さく鳴り始めた音楽を、

 身体で聴いているのよ』

 

 

 

 

 

分かりますか、この意味。

 

 

ゲシュタルト崩壊が起こりそうになりませんか??

しかしこの言葉が忘れられず、今もずっと試行錯誤しながら踊っているのです。

 

この言葉を与えて下さったのは、

舞踏家の雪雄子さんです。

雪さんは土方巽を師に持つ、北方舞踏派の舞踏家です。

青森県の大学に進学した際に出会いました。ずっと舞踊の世界で生きてきた私は、雪さんとの出会いによって舞踏の世界を知っていくことになります。

舞踊と舞踏。

同義で用いられることもありますが、全く意味が異なるのですよ。それは追々触れます。舞踏と出会ったことによって、身体表現における様々なものの捉え方が変わったのですが、音もその一つです。

 

さて、雪さんの舞踏にも触れつつ、先ほどの言葉の真意を探っていきましょう。

勿論、舞踏における音の捉え方は一つではありません。しかし、雪さんが自身の舞踏において大事にしていること、それが先ほどの言葉に表れていました。

 

雪さんの舞踏の大きなテーマ

それは何かと言うと、

原点回帰ということです。

 

この原点とは、自分自身の起源のようなもの。

どこまで遡るか?と言うと、母親のお腹に宿っていた時の感覚です。

さらに言えば、母親のお腹の中に居たときは、母親の記憶ともリンクしますね。その時は、母親と一身一体です。

へその緒で繋がる母とリンクしながら、海の中(胎内)で生きた時代。

そこへの回帰を魅せる表現者。それが雪さんです。

また、それを可能にするのが舞踏という身体へのアプローチ方法です。

 

お腹の中で音楽を聴いていると、正直はじめはほとんど動けませんでした。

パッと見て分かりやすい動きという動きは出ません。

しかし、外で聞いていた時より、確かに身体の中に音が満たされていくような心地になり、自分の目線が内側へ向いているような境地に陥りました。

音の聞き方をきっかけにして、この感覚を発見ができ、私の身体表現に少なからずの影響が出ていきました。つまり、観客目線を意識したものだけの表現を辞め、音や身体との調和はどのようなものかという、諸要素と横並びの関係での身体表現を意識的に目指していくようになりました。

 

みなさん、ぜひ一度、音を身体の中で鳴るものとして聞いてみてください。

どんな発見があるでしょうか。

変な感覚。

それは、あなたの身体が発見した、新しい身体の使い方。使われ方。

身体の可能性、広がっていけ。

 

音 〜歌詞と台詞による検証【序】〜

音。

特に、”言葉を発した音声”を舞台やパフォーマンスに用いることを考えてみよう。

ここで、「言葉が何であるか」という定義に言及したいところだが、本筋とは脱線するので、広げないこととする。”言葉を発した音声”とは、「誰かしらの人物、または音声機器によって発せられた、文法のある言語」という程度に留めようと思う。

この、”言葉を発した音声”。舞台シーンによく使われるのは、以下の2つだろう。

 ①歌(音楽とともに歌詞を歌う)

 ②朗読(台詞・詩を喋る)

言葉が”歌詞”と”台詞”に分化した。

それぞれのイメージとして、逆説的ではあるが以下のようなものが関連づけられないか。

 ①歌詞 →音楽に合わせて歌う言葉

 ②台詞 →音楽の流れを無視した日常会話や、音読する言葉

このように見て分かるように、私は歌詞と台詞の違いを、音楽に合わせているか否かで分けてみた。

 

言葉と音楽の距離感

そこに歌詞と台詞の違いを見る。

その両者の距離感をもって、踊る身体という要素が加わると、どのような表現が現れるのか。

これを検証してみたいと思うのだ。

 

 

考え得る検証方法は、以下の方法だ。

ひとつの同じ言葉であるが、

 ①音楽をつけた歌詞バージョン ②音楽を無視した台詞バージョン

の2通りで即興でダンスを踊ってみるのだ。

その時の、ダンサー自身の体感と、客観的にそのパフォーマンスを見た観客の感想に、どのような違いがあるのかor無いのか。

尚、検証する時に設定する言葉と音楽の距離感は、完全にくっついているか⇄完全に離れているか、の対極とする。つまり、音楽のメロディーやリズムに歌詞をユニゾンさせる⇄音楽のメロディーやリズムをバックに流しがら台詞として音読する、という事である。

歌詞バージョンと台詞バージョンの音声データが用意出来次第、検証を始めようと思う。

 

 

『一畳project』海外へ

2020年からスタートした一畳project。

スタートアップ時の記事はこちら⬇︎

danceliving.hatenablog.com

 

このプロジェクト、このような経過を辿っています。

●2020.05.09-06.07 創作期間

●2020.07-11 論文作成(家崎)&動画編集(田中)

●2020.12.03 新潟文化祭2020公募動画採用⬇︎

【新潟県文化祭2020】Moe Iezaki & Shiho Tanaka(家﨑萌 & 田中詩穂) - YouTube

●2021.03.21-28 アトリエZen主催『エックス展 vol.11』にてプロジェクト掲示

●2021.07 国際美術教育協会主催『InSEA Baeza 2021』論文投稿予定InSEA Baeza 2021

 

最後のInSEA(International Society for Education through Art)、みなさんご存知でしょうか?

聖徳大学教授の仲瀬律久氏は、以下のように述べています。

『INSEAの実質的な誕生は、1951年にブリストルで開催されたユネスコセミナーに端を発している。これは、第2次世界大戦後初めての国際的な美術教育のセミナーであったが、この会議の出席者が中心になって美術教育の国際的な交流と協力を趣旨とする団体であるINSEAが生まれることになる。』

『INSEAは、3年に1回の世界会議における研究発表、情報交換・交流を通じて美術・工芸を通じての創造的教育の促進と振興を図つている。』

(仲瀬律久『InSEAの歴史と展望』より引用

NakaseInSEAhisory

 

要するに、一畳projectが国外の美術教育シーンでどのような評価を受けるのか。を見ることができる機会なのです。

もちろん国内においても、学会に論文を提出してきました。(私ではなく萌さんが)

しかし本採用には至らず、つまりは国内で公的な評価を受けられていないということ。

では国外ではどうか?ということで萌さんが挑戦してみたところ、見事採用され、論文発表するに至りました。

コロナ下で現地スペインには行けず、オンラインによる発表の形となります。

以下が発表時の動画⬇︎(英語がんばりました)

www.youtube.com

 

まだ学会発表を過ぎていない&海外の学会&学会初のオンラインの試み、ということで、まだ正式に受諾されている確証が得られないのがドキドキですが、この動画が学会発表当日を経て、どんな反応を得られるのかがポイントです。

 

実は、国内においても手応えを感じる機会がありました。

それは今年3月に開催された『エックス展 vol.11』です。

これは、新潟県内出身のアーティストによる美術作品の企画展でした。

今回、萌さんの立体作品とともにデスクトップを用意し、一畳projectの編集動画をエンドレスで放映していました。

下図がその様子です。中央にあるのが萌さんの立体作品で、右側がデスクトップです。⬇︎

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この約12分ほどの動画、初めから終わりまで見ているお客様がとても多く、デスクトップと共に置いておいた、創作中の二人のメモノートにも目を通してくれました。

国内の学会においては評価が得られずとも、一般の方々は興味を持ってprojectを捉えてくれている。それがとても励みになりました。

ご興味を持ってくださったお客様の中で、保育士の方がいらっしゃいました。

保育の領域では、”遊び”を通して学びを得ることが大事なのですが、それに通ずるものがあったのだと思います。

一畳projectには、創作した末の目標や目的はありません。

あるのは変化を楽しむ心。

相手の創作シーンを見届ける。

自分のターンでは自由に表現する。

そして相手に手渡した後は、変化を柔軟に受け止める。

相手の考えを尊重し、自分の考えも蔑ろにしない。

それらは保育の教育現場では、日常的に大事とされていたことなのかもしれません。

 

人と接触せずに、人と関われるアート

そんなことを思いながら萌さんが始めた一畳projectは、人とコミュニケーションをする上で大事な心構えのような前提を思い出させてくれ、子どもが最初に倣うべき感覚を養ってくれるのではないでしょうか。

 

そんな萌さんですが、春から大学の助教授となりました。

www.kanazawa-gu.ac.jp

今後も楽しみですね。

新型コロナ下におけるダンス界やダンサー

8月から休職が始まり、7ヶ月も経ちました。早いです。鬱状態だと1日何もできない日が多いです。

しかし考えることは四六時中止まらず。答えの出ない命題を、永遠と考えてしまう癖があります。思考の話題の一つとして、「現代におけるダンスの有用性とは?」があります。

 

現代の振付家やダンサーたちは、どうやって集客するかについて、日々頭を抱えていると思います。正直、オンラインに切り替えたにせよ、舞台でのダンス公演の客足は減っている一方でしょう。ワークショップやクリエイション公演も、受講したり観にきてくれたりと、人が集まる前提で成り立っているプロジェクトです。他にも、ダンス未経験の人でもダンスの舞台に立てる”コミュニティー・ダンス”も、核として集団の持つ熱やトランス状態のような感覚があります。クラブなども同じことが言えますね。それらは現在タブーとなっています。

しかしこういった時代において、バレエ、つまりは職人技系のダンスは強いとも思いました。高い技術を磨き、コンクールなどで凌ぎを削り、勝ち残った者がプロへ昇格する、美しさ一本の世界です。ダンスの意味合いが広くなってしまいますので、今回の文章では、コンテンポラリー・ダンス現代アートにおけるダンスを対象に考えたいと思います。

街のダンス教室でも、人前で発表することが濃厚接触だとして控えられている今、年に一回の発表会という唯一の目標が失われています。現在ダンス教室の集客も伸び悩んでいるのではないでしょうか。

教育現場でもダンスはもとより、美術科や音楽科といった芸術科目は優先順位が更に下がり、授業時間が減っていると思います。新型コロナで休校が相次いだため、受験に必要な主要科目へ時間が注がれていると考えられます。「アートなんて、やりたくてもしてる時間無いよぅ!」と一部保護者からも言われそう汗

つまり、ダンスを発表することも、指導することも需要が減っている。場によっては「儲からない」実態に繋っています。世のダンサーや公演、ダンス教室を見ても、そのような現状を肌で感じます。

 

 

しかし見方を変えれば、こういったダンス界への打撃は、進化のきっかけになっているのではないでしょうか。オンラインでの公演やレッスンスタイルは、今や実験的なものではなく、当然のスタイルとして確立しつつあります。同条件下で生きるダンサーたち、各々の組織が同時多発的に実験を行えば、後に定説が見出され、多くの人がそれを認識することで、徐々に定着へと繋がります。

こう考えると、今は新しい土台を作っている最中なのかもしれません。新しい時代に適したダンスの形。それを多くの人々が模索することで、ダンスの文化を次の時代へと紡いでいく。土台が無いことに不安にもなりますが、土台を作っている時代に生きている楽しみも味わえます。ジョン・ケージカニングハムなら、現代においてどうやって表現していたかな…等と考えてみては…?

 

 

一方で、個人の問題に立ち返ってみますと、このような状況下では、改めて「踊る意味」について内省させられます。その中で出てきた、自分への問が以下。

 1.「現代、それでも君は踊り続けるのか?」

 2.「今まで、何に突き動かされて踊ってきたのだ?」

私の回答は、「1→YES/2→衝動」という頭の悪い回答w

「踊らざるを得ない、踊り出してしまう身体を持っている」という開き直りに立ち返ってしまう。あなたはどうだろう? 人によっては、お金にならないなら、踊りを辞めるという選択に辿り着く場合もあるでしょう。選択は人それぞれ。それぞれが正解だと思います◎

1・2を回答した私は、更に次の問が自分の中に出てきました。

 3.「では、自分のしたい踊りって何?」

うーん。。

私の場合、それを回答するヒントは、自身の過去のダンス経験にあると思いました。過去に踊って得てきた感触の中で、「これは譲れない!」という、ダンスの価値観みたいなもの。それによって、自ずと唯一無二のダンサーへとさせるもの。その純度を上げていくことが私にとって修行であり、成長。まとめると、回答「3→自分のしたい踊りを突き詰めていくこと」となるでしょうか。またも堂々巡りな回答となってしまいました。

 

さて、現代におけるダンスの動向は、組織や団体に関わらず、チェックの価値ありと思います。

日本の大きな組織で言えば、吉田都が芸術監督を務める新国立劇場(コンテに限ると言っておきながらクラシックの例を出します←)、コンドルズ 近藤良平が次期芸術監督となることが決まった、彩の国さいたま芸術劇場…etc。ダンスカンパニーで言えば、私も一度ご縁のあったBaobabやコンドルズ …etc

私も、「一畳プロジェクト」という研究にダンサーとして協力しています。(別記事にて)

 

踊りは”止められない、止まらない”ものであると思います。私も含め、そんな人種が、どうやって踊りを発散していくのか。絶滅を食い止めるのか。乞うご期待。

 

現状報告〜ブログの方向性

久しぶりです。

今までに、プライベートで実に様々な出来事がありました。

大まかに述べますと、

・北尾亘クリエイションフルリモート公演 出演

・正社員勤務 鬱病により休職

 

充実してるんだかしていないんだか、自分でも分かりません。

しかし、着実に、自分自身を知っている過程だと思います。

 

つまり、

・人の出す音に、超敏感でストレスになる

 →人と常に同居の空間はNG

・責任を感じると、異常に自分を追い詰める

 →人の上に立つような立場になることはNG

ということです。入社2年目にして、一般的な会社勤めが難しい気質なのだと知りました。

精神科に通院しながら、自宅療養を行う日々です。

 

正直、現時点では悔しいです。

完璧主義な性格によるものだと思いますが、周囲の色んな人の期待に応えられない自分に絶望してしまうのです。

死にたくなることが多くなりました。

死という誘惑は、とても近くに居るのです。

 

そんな中で、何をブログで発信するのか。

今一度考え直しました。

ダンス創作について考えを発信しようと思いついた理由は、創作に困っている人の手助けがしたいと思ったからでした。

現在も、誰かを助けたいという思いは変わりません。

今思うのは、ダンスに限らなくても良いのではないかということです。

私は、デザイン、占い等、ダンス以外にも関心ごとがいくつかあります。

そこには、「自然環境と人間生活との関わり」のようなものが通奏低音としてあります。

ですので今後は、そのような観点に立ち、吉田兼好の「徒然草」のように文章を綴っていきたいと思います。

今までのような、ダンス創作についてや活動報告に加え、手掛けているデザインワークやなんとなく思ったことの発露も、増えていくと思います。

 

そこで、タイトルを変えようと思います。

何が良いか考え中ですが、このブログに来て、ほっとするような場所にしたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

音  ~音の共有~

久しぶりの更新です。

というのも2週間ほど、「北尾亘クリエイションWS@オンライン」に参加しており、こちらにエネルギーを割いておりました。

こちら既定プログラムは終了しているのですが、今後また動きがありますので、後日触れたいと思います。

https://www.instagram.com/p/CBA7RYRF7np/

模索実験中①アングルで遊ぶ②仕事を元に動く#日本海

さて、今回は音の話をしたいと思います。

 

     音。

 

このとてつもなく大きな存在を、少しずつ解説していきます。

 

手始めに、音の分かりやすい効果として、時間感覚の共有を挙げますね。

タイムキーパー的な役割です。

 

これは群舞の場合だと分かりやすいです。

ダンサーさんの間で、「この音が聞こえたら、〇〇する!」というように計画を立てるのです。

例えば無音の中、みんながおんなじカウントを心に刻んでいても、タイミングが双子の動きのようにピッタリ揃うことは、人数が多ければ多いほど難しいでしょう。(しかしそれはそれで素敵なパフォーマンスになりますね!)

そこで、曲をかけるなどして音を鳴らすと、合わせたいタイミングが客観的にわかります。複数のダンサーさんが、それぞれに刻むバラバラの時間感覚を、そのタイミングでリセットできるとも言えます。

音と動きの一致は、観客にとっても、大きな感動が生まれるでしょう。

このことは、次に挙げる効果にも通じます。

 

それは、音が風景を表すという点です。

この風景という観点は、岩渕貞太さんがインタビュー内で言っていたものです。

以下、インタビューから抜粋です。

 

「僕は基本的に物語や人の感情的な部分と踊りを繋げて作品をつくることはしません。でも身体だけでは何も立ち上がってこない。そこで空間と僕の身体に音楽を加えることで、何らかの「風景」が立ち上がってくるのではないかと考えました。物語に沿って見える情景でも、僕個人の感情でもなく、身体と音楽、明かりや音響も含めた空間があることで、どんな「風景」が表れるか、それを追求することにトライしたいと思いました。」

(『アーティストインタビュー 岩渕貞太』https://performingarts.jp/J/art_interview/1204/1.html

 

身体も音も明かりも、風景を成す要素として、同等に捉えていることが分かります。

ダンサーと観客が、風景を共有する。

音にフォーカスを当てると、同じ音を聴いているということです。

 

音を聴くって、それだけでもう立派な身体活動だと思うのです。

ダンスしていない観客たちも、同じ聴覚刺激を受けて、身体が反応しているはずです。

聴いて身体が反応することは、脳科学的観点からも証明されています。

「音楽にふれることで、感情脳、つまり大脳辺縁系が「楽しい」「うれしい」「気持ちいい」といった快い刺激を受けます。

 するとその情報が、全身の調節機能を持つ動物脳=自律神経系に伝わります。

 自律神経系は、その「快」の情報に反応して、今度は体にも同じ「快」の状態をつくろうとして、快楽ホルモンの分泌などのさまざまな変化を起こすわけです。」

ショパン『脳にうれしい音楽のチカラ~アンチエイジングの黄金律~』佐藤富雄より「第4章 音楽はアンチエイジングの特効薬」P.107~P.108)

 

この引用では、「快」というポジティブな感情を例にとっていますが、ネガティブな感情にも当てはまる構造でしょう。音によって感情が喚起されると、脳がホルモンを分泌し、身体に影響を及ぼすことが分かると思います。

 

観客は音を聴くことによって、ある感情が喚起される。

しかし目の前のダンサーが、その感情と相反する動きをしていたらどうでしょう?

このダンサーは、果たして「快」なのか否か。。。等と、観客はぐるぐる考えてしまうのではないでしょうか。

 

あなたなら、どのようにこのぐるぐるを操作しますか?

ここに、あなたの創造性を発揮するひとつのポイントがあると言えますぜ。

(つづく)

 

 

 

 

『一畳Project』始動

今回は、現在の私の活動の一部をお話します。

と言っても、友人と実験をしているというお話です。発起人であり研究主体は、友人の家崎萌さんです。(前回も登場しました!)

 

彼女の表現手法は、彫刻などの立体作品です。しかし、この新型コロナの影響で、作品を作る場所に行けなくなってしまいました。

工具や重機等の道具や、大きな材料といった、作品制作に関わる専門的な物たちが使えなくなりました。

 

一方の私は、身体さえあればどこでも踊れます。自粛期間でもオンラインによるレッスンを受けたり、スタジオが閉鎖して駄目なら、外で踊ったりします。

 

このように自粛期間において、ダンスやパフォーマンス業界もそうですが、美術界も面食らってます。

作品を作る問題で言えば、

美術は、特別な道具が必要だというのに対し、ダンスや身体表現は身体さえあればすぐ表現できる。

当然、美術の方は身体表現より瞬発力が劣りますよね。

 

 

少し昔の話をすると、私たちは過去に何度かコラボで作品を発表して来ました。簡単に言うと、萌さんの立体・平面作品が設置された空間で、私が踊るということです。萌さんの作品に触ったり、手に持ったりして物を移動させることもあります。

私と萌さん。表現手法の異なる2者は、

・完成された作品を設置して魅せる

・ライブで表現したものが完成形

というように、完成するタイミングが異なる点で対峙しています。物質的に捉えるならば、萌さん→私の順で作品が完成していることになります。ここに、萌さんは行き詰まりを感じていました。

一方で、完成作品を設置する以外で、自身の美術と身体表現のコラボができないだろうかと、興味がありました。これはお互いに。

 

 

さて。話を現代に戻すと、

道具を使えない。

人と会えない。

この状況下で、できる制作って何か。

立体作品を作る人間として、萌さんは考えました。

 

 

ここで、彼女が思い出したのが、留学先のチェコで体験した交換創作なるものでした。(ここでまた少し前話。昔話ではなくてね)

それは、ひとつの場を共有している仲間と、順々に作品にその場で手を加えていくというものでした。しりとりの様な要領です。手を加えるというのは、特別にアート表現をするだけではありません。

声を発するもあり、そこに置いてあるものを取っ払うもあり。時間にも制限がありません。何でもアリです。

前の人が積み重ねてきた痕跡を見つつも、自分のターンでそれを受け取ったときは、自分の好きなように変えて良い。100%自分の世界を出して良いのです。

自分のターンのときは、妥協なしで表現して良いのですよ。次の人への遠慮も要らず、そのまま明け渡す。そのため、「共同制作とは違う」と萌さんは言います。

 

加えて、この交換創作の面白さは、手を加えた人の意図と、次に受け取った人の意図が異なったものになるという点でした。

「共同制作とは違う」と言った最たる理由はここにあります。

なにかの目標やコンセプトをひとつ決めて、みんなでそれに向かうわけでは無いのです。

各々でコンセプトを、ターンの都度に見出していきます。

 

作る時間が終わった後、何を考えながら手を加えていたのか、仲間とお互いに打ち明けると、三者三様に違うそうです。

そのギャップに、萌さんは面白みを感じ、この期に及びやってみようと考えました。

出来上がった作品より、むしろ終わったあとのフィードバックに惹かれたそうです。

 

 

このような経緯を経て、私に「ちょっと遊んでみないか」と話を持ちかけてくれました。

今後しばらくは、萌さんと私とで、一緒に交換創作をしていくことになりました。

 

プロジェクト名は、『一畳project』✰

萌さんと私との、新たな制作活動でもあります。

その名の通り、共通に手を加えていくフィールドの大きさを、一畳としました。自粛期間でも、日常的に部屋にある大きさで、一般的に共通認識できる大きさとして、定めました。

設定上は、お互いに会わなくてもその場に行けば手を加えられるということになっています。

このプロジェクトで新たな作品をこしらえることもしません。使えるのは、日常のもの。今まで作ったもの。身体。です。

 

実際に制作していく会場(一畳)はこんなところです↓

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1畳がたくさんあります!

さてどの1畳でしょうか??

 

私たちはお互いに対面できる距離にいます。この実験では研究も兼ねているため、記録もします。

撮影用カメラと日記↓


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交換創作中、日記は相手に見せません。フィードバックをする最後に見せ合います笑

 

今現在何回かターンを繰り返しました。


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今後どうなっていくのか、未知の楽しみがあります。

また報告します✰